牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

『違い』が招く『平等』の終わりの物語(五等分の花嫁評論)

 

 

①作品概要説明

 

『五等分の花嫁』は、高校留年レベルの成績不振に苦しむ外見がそっくりな五つ子(一花、ニ乃、三玖、四葉、五月)姉妹の家庭教師を担当する事になった上杉風太郎を主人公とする青春偶像寸劇。作品冒頭で風太郎は五つ子の誰かを花嫁にする未来が明かされ、誰を花嫁にしたのか、どのようにして結ばれるのか、を描く物語。

 

お姉さん気質で少しズボラな、女優を夢見る一花

料理が得意で姉妹思い故に風太郎に強く当たるツンデレ二乃

引っ込み思案の歴女だが言う時はハッキリ言う三玖

元気なスポーツ少女だが、どこか陰のある四葉

食いしん坊でしっかり者だが要領の悪い五月

 

といった個性豊かな五つ子が織りなすハーレムものとしての面白さに加え、母親の遺言である『五人一緒』の呪縛に囚われた共産主義的集団が風太郎への恋心を共通に有する事と個性の獲得により壊れていく、というユニバーサルに誰しもが経験する理想郷の衰退の物語だ。

 

作中に散りばめられた数々の伏線と描写は秀逸で、花嫁決定の流れも計画的な筋の上に成り立ち、手垢のついた筋を中心に圧倒的な作画による作品がトレンドの中で筋で勝負できる数少ない佳作であり、是非、ご一読いただきたいので花嫁決定や詳しいストーリーに触れず、『五等分の花嫁』を叩き台に幾つかのイシューに触れる。

 

 

 

②現実よりの使者との邂逅

 

風太郎の現実

 

風太郎は作中ではリアリズムの権化で、勉強熱心だが、学問の探求目的でなく、大学受験勉強に過ぎない。彼は知っている、持たざる者が日本社会で安定的な生活を送るためには学歴しかないことを風太郎は貧しさと現実を知っている。母親は死去、父親は低所得肉体労働者、幼い妹もいる家庭で学費を払うのに必死。日本社会の現実を家庭から学んだ、資本で生活は安定し、資本は圧倒的才能を除き、学歴により獲得される仕組みを。

 

資本格差が学歴獲得(受験)での小さくない差になる。風太郎は家にTVもなくコピー機も買って貰えず塾にも通えない、そんな彼が勝つには受験勉強以外にかける時間を削るしかない。持たざる風太郎が将来を勝ち取るためには受験勉強に出来る限りの時間をかけるしかない。恋愛は学業から最も離れた愚かな行為、という彼の発想は資本主義の片隅の貧困家庭の中で作り上げられた現実主義の現れなのだ。

 

五つ子のモーションに気づかない鈍感さも、高校初頭時期まで勉強に集中していた事で他者から『付き合いの悪い取っつきにくい人物』と見られることへの自己防衛として他人への関心を絶つ習慣が染みついた事の弊害なのではないか。

 

ゆたぼん氏の存在から教育の意義についての議論が白熱しているが、学歴を要さなくても人脈や才能で集金が可能ならば学校へ通う意味などない。学校へ通うのは才能の無い凡人の食い扶持獲得の為の箔付けでしかないのだから。

 

大学全入時代も学費欲しさに大卒ブランドを維持したい大学側と4年以上時間を潰してくれて人件費を落せる企業側の談合の産物で、食い扶持を見つけられるメドが立つなら学校へ通うのは無意味に等しい、ただ僕や風太郎のように才能に恵まれなかった凡人には学歴がないと食い扶持が見つからないのが実情だ。

 

晩婚化も半強制的学業従事年数の軽減をすればよいと思うが、この力学はいかんともしがたいのだろう。

 

(2)五つ子の理想

 

戦争は何故起こるか、それは略奪/侵攻行為のメリットが戦闘行為による被害を上回ると判断されるから。国民人口の増加に資源や食料や領地が追い付かない事が主因。生まれた土地による食糧供給度や環境の差異といった部分が人口が増加する事で看過できない事態を招くのが戦争の最大のトリガー。

 

個体差や生息地域の格差がなく、少数人口の集落なら?

 

戦争や紛争が起こりづらい平和条件を満たした好例が中野家の五つ子。風太郎と同じく母親を亡くすも父の圧倒的財力により五人で仲良く五等分して生きる、という共産主義思想による理想主義を生きている

 

四葉の成績不振による集団退学も、通う学校を学費や通学費といった部分を考えず実行出来る財力の為せる業で、風太郎とは異なり幼い頃の母と過ごした貧しい日々よりも物心ついてからの金満ライフが与えた影響は大きい。

 

 

 ⑶理想郷の揺らぎ

 

そんな理想主義は風太郎というリアリズムと成長による個体差の発生から崩れ去り、理想郷を支えてきた全員の平等を担保するシステムが壊れる。『五等分の花嫁』とは五つ子教という共産主義が資本主義に負ける物語なのだ。五つ子は未来へ向け『皆で五等分』思想の緩やかな放棄へと向かう。

 

この揺らぎは主に3つの事から加速していく。

 

(ⅰ) 風太郎が提示する現実

(ⅱ) 個人差の発生

(ⅲ) 出し抜く必要の切迫

 

個体差が成長により崩れ始め、風太郎というモラトリアム終焉の文脈が挿入され、風太郎の彼女になるために他の姉妹を出し抜く必要が更なる個体差を生じるキッカケになっていく。成長、現実挿入、競争原理の3点により、姉妹5人による共産主義は崩れ去っていく。個性の獲得が共産主義を打ち砕いてしまうのは非常に示唆的だ。

 

 

 

③完備性ゆえの難しさ

 

(1)不可弁別性

 

五等分の花嫁は、『入れ替わり』によって物語が動く仕組みになっている。事あるごとに挿入される『五つ子ゲーム』に代表されるように、五つ子は見分けがつかず装飾品による差別化でしか区別が出来ない存在。

 

三玖が風太郎を異性として意識するのはクラスメートの告白の断りのために一花と入れ替わり、流れで風太郎とキャンプファイヤーで踊る約束をしてしまった事に対して一花への嫉妬に近しい感情に気づいたから。一花が風太郎への好意に気づくのも風太郎とダンスを踊る展開の到来によるもの。

 

五月も一花と入れ替わり風太郎を試し、母親の逝去のショックから父性への不信を抱いていた中で風太郎を信頼するキッカケとなる。五月は風太郎への好意を抱く人間ではなく母の欠落というテーマを担うが、そこでも入れ替わりが重要になる。

 

零奈は四葉の幼少期の姿であるが、風太郎に会い決別を告げる事になる。これも入れ替わりが駆使され重要なシークエンスとなる。

 

このように五つ子の個体差の少なさを利用した『入れ替わり』が風太郎と五つ子の物語を展開し加速する。これは漫画であれば説得力はあるが、アニメとなると問題が生じる。『声で入れ替わりがバレてしまう』のだ。

 

 

(2)アニメ化の困難さ

 

本作は完成度が高く完備性も凄まじい、故に次元を漫画からアニメに少し上げただけで支障をきたす。『入れ替わり』不成立問題だ。

 

アニメ一期の五月と一花の入れ替わりも明らかに一花からはCV水瀬いのりの声が識別でき、二期の四葉と二乃の入れ替わりも四葉から明らかにCV竹達彩奈の声が明確に聞こえる。このノイズが『五等分の花嫁』アニメ化作品が原作を超える事の出来ない重大な欠陥となる。声の違いという明確な差異が作品構造『個体差のなさ故の共産制が風太郎と出会い個性を獲得しモラトリアムに終止符を打つ』を崩す

 

漫画宣伝動画時の佐倉綾音による五つ子全員のCV担当がベストだが、人気作のアニメ化という集金性の高い企画にて声優ユニット的スキームとして5人のメインキャスト形成が要請され仕方ないのだが個人的には残念だ。

 

アニメは、ご都合主義に左右されるが作画で押して行けるほどの出力はなく、筋の力で魅せる作品なだけに1期の残念な作画はまだしも2期の不自然な改変や五つ子キャストの一元化の拒否で原作の希薄化映像となってしまう。

 

現代アニメのトレンドでもある圧倒的作画力に依拠しない本作は内容で勝負しなければならず完備性を如何に傷つけず映像化するか、が問われ、現代職業アニメ制作の現場においては厳しい課題で、こういった事情からも作画至上主義的なアニメが作られ続けるのだろう。

 

 

 

④互換性に見る声優界

 

(1)声優特需

 

2020年くらいから声優の地上波テレビ出演が激増した。カラーバス効果かもしれないが、ゴールデンタイムの番組にも声優が出演し、コロナ禍において鬼滅の大ヒットが映画界を救済したように、YouTubeバブルの弊害で壊滅的な低迷の様相を呈す地上波テレビの救済をアニメ声優に賭けているのだろう。声優側にとっても地上波テレビへの露出は地上波ドラマへ『俳優』として出演出来る好機。声優の地上波タレント化はWINWINな取引なのだろう。

 

特に『声優と夜あそび』を始めとする声優番組やアニメに力を入れるネット放送局アベマ放送と提携するテレビ朝日は積極的に声優をタレントとして起用し、他放送局にも波及している。ただ地上波放送が低迷している理由が放送内における声優への扱いから垣間見えたのも事実だ。

 

何故地上波は死んだのか、それは掘り下げがないから。番組に割ける金銭と人員が圧倒的に不足してしまった事、また作りこみの浅いスキームでも輝ける人材が欠落してしまったからだ。その結果、YouTuberが出てきたら『儲かってますか?』しか聞かないし女性アイドルが出てきたら『グループ仲悪いでしょ?』グラドルが出てきたら『誰に口説かれたの?』もはやAIでも代替できる。

 

このスタンスが声優にも向く。TVマンにとって声優とは『ビックリ人間』。だから殆どの番組で声優は『様々な音が再現可能な職人』的なアングルでしか扱われず、声優個々人への細やかな分析、声優界の問題点には全く触れない。問題なのは声優の善し悪しが声域という指標の是非だ。

 

(2)五等分の花嫁に見る命題

 

『五等分の花嫁』の五つ子は入れ替わっても判別不能の互換性があり、入れ替わりが物語を動かす故に担当声優に求められるのは他キャスト声マネが出来る事。原作において無理のなかった入れ替わりがアニメで不自然さが拭えず面白さが減る事は前述した。

 

この素養は声の表現域の広さであり、声優のバラエティへのインストールを図る上で声域オバケの立場を要求するバラエティにおいて更に声域至上主義的志向の強まりは誤った価値体系を流布する可能性がある。これは永遠の命題でもあるのだが声の演技にとって大切なのは声色なのか演技力なのか、という議論だ。

 

プロ野球の歴代最高の守護神にも数えられる大魔神こと佐々木投手はフォークとストレートしか投げない投手。しかし誰も彼を捕まえ『ダルビッシュのように多くの変化球を投げられない凡庸な投手』という評価は下さない。変化球が多いか少ないかではなく打者を抑えられるか否か、が重要だからだ。

 

声優も同様。声色も大事だが声に説得力を持たせ違和感を視聴者に与えない事も重要で、あらゆる声を出すビックリ人間になる事が全てではない。声優の凄さを声域の広さと再現にのみフォーカスするのは将来の声優志望者への負の影響が危惧される。

 

 

⑶これからの声優

 

何度目かの声優ブームは声優の競争力の増強、顔出しによるアイドル化というフェーズを経て衰退する地上波放送の救世主として影響力を増す。他方、苛烈な人材飽和から絶対的存在不在の世界となった。互換性を持ち入れ替わりに対応できる五つ子は代わりがいくらでも利く声優界とリンクし声域至上主義の発展と共に、この流れは強まる。

 

アニメはコロナ禍の映画界を救い、地上波放送も救おうとしている。その担い手、声優はアイドルを超え表現者として多様な活躍が求められ、互換性を極限まで向上させたとき、どんな世界が広がるのか。自分は力学体系による政治的な世界になると予想する。

 

モデルのマリエさんが18才頃、島田紳助氏から枕営業に誘われ応じなかった事で番組を降板。誘われた場で島田氏の取り巻きの芸人(出川哲郎氏と明言)は応じるように囃し立てたと告発した。枕営業をするのは個体差がないからだ。マリエが担うロールは画に花を添える事。コメント力も突出したものはなく替えの利かないタレントでなく、実力以外で評価されるのは自然だ。

 

個々人のレベルが高く個体差がないから代わりが簡単に利き、結果としてプロダクションの力学や枕営業のような実力以外の要素が強くキャリアに影響してしまう。大金の集まるところに才能は集まる。TV局に集まる資本は莫大で、地上波低迷は芸能界の低迷ではない。才能が既存メディアから離脱しているだけだ。

 

構成員の能力が拮抗し互換性が向上すると結果としてモラルを無視した集金モデルへとコモデティティが進んでしまう、という映画界、TV界でも見られた現象が声優界でも見られるようになっていくはずだ。だからこそ、こういった負の前例から学びながら、道を踏み外さないでもらいたいと願うばかりだ。

 

⑤最後に

 

今回は『五等分の花嫁』を叩き台に

 

平等が個性と現実により壊れてしまう問題

完備性のある原作のアニメ化の困難さ

互換性の向上による声優界への危惧

 

を述べてきた。一万字を超える事も少なくない自分のブログ記事にしては5500字程度で幾何か読みやすかったと思う。アニメや漫画の評論は執筆していて、とても楽しいので、またリクエストを頂けたら。

 

次回記事は7月頃にプロスピAというスマホゲームを叩き台にした現代野球を語る記事を予定、ただ僕が応援するペップシティが大耳を制覇すれば『ペップシティとは何なのか』を急遽執筆するのも悪くないな、と思っており、内容は未定。

 

2010年代後半から2020年代前半にかけ作画で押す作品が覇権作品となっている。海外資本による3Dアニメの技術進化も相まって作画時代は続くだろう。そんな時代の中で筋で勝負できる『五等分の花嫁』のような作品が登場する事を筆者は切に願っている。真の名作とは売り上げではなく見た後に語りたくなる内容のある作品だと信じているので。