牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

3.11トリロジー(『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』批評)

11/11(金曜)新海誠の最新作『すずめの戸締り』が公開された。本ブログは脱構築が大好きな自分が愛する様々な脱構築アーティスト

 

ペップ・グアルディオラ

庵野秀明

秋元康

 

といった面々のプロダクトに焦点を当ててきた。そして現在の”大作画時代”の旗手にして新時代の"宮崎駿"たる新海誠についての評論を執筆することにした。自分は新海については庵野ほどの情熱を持っては見ていないが、それでも確実に細田守新海誠は確実にアニメ界の王様になるだろうと見ていた

 

まず、現在のアニメ界に広がる大作画時代について説明し、そして新作も含めた新海誠が世間に”バレてしまった”時代の作品

 

君の名は。

天気の子

すずめの戸締り

 

の3本についての総評という形での評論を以下に与える。

 

 

第1章 革命の始まり

 

1-1 細田による”父殺し”

 

大作画時代、2010年代中盤から目に見える形で覇権クラスの作品群が纏う雰囲気は相当に似てきている。アニメブームが2000年代後半から再び始まり、何度目かの声優ブームの到来、ヲタク相手の商売にすぎなかったアニメ界で唯一国民的なユニバーサルを生み出すことの出来た宮崎駿の”生前退位”を受けて、緩やかにアニメ業界は変容する。

 

駿の息子、駿に見限られた男、駿の弟子、数々のアニメ作家が宮崎駿玉座に座るべく様々なアプローチがなされたが、革命は辺境から始まるいうが、アニメ業界も例外ではなく、駿の息子である宮崎吾朗でも弟子の庵野秀明でもなく、駿に見限られた男であった細田守によってアニメ世界の一大トレンドは生み出される

 

スタジオジブリの研修生試験に不合格後、東映動画で実力をつけた新進気鋭のアニメーターであった細田は『劇場版デジモンアドベンチャー』で監督デビューを果たす。そして細田自身にとって大きな作品となる『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』でブレイクし、かつて自身を不合格にしたスタジオジブリから声がかかる。

 

ジブリ宮崎駿/高畑勲の両巨頭の年齢を考慮し、看板監督を探していた。宮崎の引退の意向も踏まえてポスト宮崎駿として招かれたのが細田守だった。しかし制作は難航し細田版のジブリ作品(ハウルの動く城)は中止となり、細田は2度目のジブリからの失格の烙印を押され下野することになる。

 

細田守は終わった。

 

当然のように業界にはそう伝わった。ジブリは後継者を、細田はキャリアを失った

 

しかし、細田守は結果として宮崎駿の時代を終わらせることになる。

 

14年間勤めた東映に別れを告げた細田はフリーとなり新作映画を作り出す。

 

時をかける少女』である。

 

小規模上映でありながら、筒井康隆の名作を脱構築し新たな”時かけ”は多くの人々の心を掴んだ。興行成績も上々の中、3年後に作ったのが『サマーウォーズ』この作品は構成はジブリへの2度目の挑戦権を勝ち得たぼくらのウォーゲーム!』の脱構築作品だった。そしてこの作品のデジタルと土着的アナログの対比、圧倒的な作画、エモーショナルな音楽、わかりやすいシンプルな脚本、これらの組み合わせがジブリ宮崎駿の時代を終わらせる。

 

そして細田守作品の最高傑作である『おおかみこどもの雨と雪』を生み出し、細田守はポスト宮崎駿の最右翼にのしあがった。細田はアニメ映画、ひいてはアニメの形を変えてしまったのだ。デジタルと手書きの併用だけではない。要は音と画の力だけで作劇の不備は簡単に隠蔽できてしまうという事である。

 

どんな物語なのか、そんなのはどうでもいいのだ。作劇は過去引用で事たる。一番大事なのは作画をどこまで美しくできるか、そこに美しい曲を載せられるか、この出力が一定の割合を超えると作劇の不備は吹き飛ぶ、という高出力の時代を細田守は作り出した

 

そしてジブリは、この高出力時代に耐えられなかった。デジタルと手書きのミックスで圧倒的な作画力を要求される中で手書きにこだわり、作品の内容もオリジナル要素が強くモダニズムといったこだわりの強いテーマを懇切丁寧に描くジブリ流は勢いを失っていくことになる。

 

これは野球界にも見られる。投手の投げる球速はどんどん向上し続け100マイル超えの4シームを投げる投手も増えた。例えばデグロムは4シームとスライダーしかほぼ投げない。緩急など必要ないのだ。圧倒的な出力があればツーピッチ(2球種しか投げない投法)で十二分に通用してしまうのだ。それに比例するように野手のフィジカルも向上し続け、野村克也の提唱していたアウトロー最強説はいとも簡単に崩れ去っている。例えば2022年CSでの藤浪VS村上、アウトローの154kmの直球はスタンドに吸い込まれた。

 

高出力の前では技巧は無力と化すのである。高出力投手陣とパワー型野手を揃えたソフトバンクの前にジャイアンツは日本シリーズで2年連続のスイープ負けを食らった、

 

2012年にはアニメ界からの”家出”から帰り実写映画制作に諦めを感じた庵野秀明エヴァ脱構築はQで破滅を迎え、宮崎駿本人も2013年の『風立ちぬ』で事実上の引退をした(この後に帰還するが笑)。

 

そして”父”も”兄弟子”もいなくなった長編アニメ映画界において唯一のユニバーサルとなった細田守は大作画時代の王として次のフェーズへと向かう。時かけ、サマウォ、おおかみで脚本協力をしていた奥寺佐渡子と決別し、全権を掌握した男は満を辞して時代を闊歩しようとするのである。

 

しかし、時代を終わらせた男は皮肉にも自身の作り出した”ウォーゲーム”を、もっと上手くプレー出来る男によって2番手へと追いやられることになるのである。

 

その男こそ、新海誠である。

 

1-2 辺境の革命家

 

2015年の細田の『バケモノの子』がヒットはしたものの60億弱と宮崎駿の後継者として若干寂しい数字を残す中で翌年、興行成績250億という恐ろしい数字を叩き出す映画が作られることになる。その映画を生み出した男である新海は大作画時代のトレンドを抑え、細田の生み出した世界で細田を一足飛びに追い越す

 

細田を狂わせたのは『おおかみこどもの雨と雪』である。初めての純粋なオリジナル脚本であり奥寺の影響力を”協力”に抑制した結果、最高傑作が生まれてしまった。この事で細田は誤った自信を有してしまったのだろう。奥寺と決別し、その後の『バケモノの子』『未来のミライ』『竜とそばかすの姫』はヒットこそしているものの100億の大台には乗る事はなかった。

 

これまでも宮崎の血脈王位継承戦争に突如として出現した新海誠は、どこからやってきたのだろうか?

 

大手ゼネコンの父親の資本的余裕のある暮らしを得ながらも、親の会社を継ぐことを拒否した新海誠は、ゲーム制作会社日本ファルコムに入社する。そこでゲーム制作を志望するも叶わずパッケージのデザインといった仕事を任される。この当人の”飢え”が業務終了後の自主制作アニメへと繋がる。

 

朝昼はデザインを描き、家に帰るとアニメを作る。こうして出来たのが『彼女と彼女の猫』('00)である。このショート映像は新海と篠原美香の二人で共同制作されており、これはファルコム退社後のフリーで作った作品『ほしのこえ』('02)でも同じだ。新海と篠原は婚約関係にあったとも言われているが、現在の新海誠の奥方は三坂知絵子であるため、婚約解消に至ったのでは、とも噂されているが真相は闇の中だ。

 

ただいずれにせよ、この2作品、特に『ほしのこえ』は現在の新海誠の要素が相当数詰め込まれている。二人の男女の若者、遠く離れてしまう残酷な運命による別離、SF要素を取り入れ、そして何より背景の作画は圧巻の出来となっている。新海誠の、その後の仕事はほしのこえ脱構築し続けているとも言える。評価と売り上げは上がれど、生活は豊かにならず、それでも新海は作品を作り続ける。

 

次作『雲のむこう、約束の場所』('04)では3人の男女の物語が描かれ、平和の均衡を担う少女の処遇を巡り選択を迫られる物語となっている。ユニバーサルな世界か僕とキミというローカルなセカイが交わり合うセカイ系の物語を書いており、またSFや分断社会といった、地続きの世界を軸にしながらSFでメタ構造を作ることを目指した作品となっている。

 

そしてミニマムな制作スタイルで次に挑んだのはオムニバスだった。3編からなる映画『秒速5センチメートル』('07)を発表する。そこで描かれたのは環境と関係の等価性。すなわち、環境を残酷な運命によって引き裂かれた結果、それは関係断絶に繋がり、そして断絶のトラウマに苛まれ続け、そのトラウマと喪失を受け入れ乗り越えようと決意するまでの物語となっている。別れた女への執着は、監督自身のメタなのでは?という声は、上に書いた篠原婚約者説に立脚するものなのだろう。

 

自身のネタを出し切ったと考えたのか、新海はグアルディオラのように中東に向かう。そこでさまざまな文化に触れ、そして商業主義に殉ずる覚悟を決める。

 

見てもらえなければ映像作品に価値はない、という考えに至ったのかもしれない。

 

そして新海は、自身の集金装置としての完備性向上に至っていく

 

1-3 集金装置への挑戦

 

これまで書きたいものを新海は書いてきた。それは当たり前で、元々の彼の制作は会社で満たされない創造意欲の発散だったからだ。その後の物語も若者を軸とした環境と関係の等価性をめぐる物語をSFやセカイ系といった要素を入れながら作り上げていった。良い意味で新海は客を見ていなかったのだ。

 

しかし、そんな新海は商業主義、すなわち、多くの人の目に映るものの創作を試みる。そこで作り上げられた作品が『星を追う子ども』('11)である。血も涙もない表現になるが、この作品はジブリ崩れである。また、これまでとは規模の違うチームワークでの制作ということもあり苦戦し、興行的にはお世辞にも成功したとは言えなかった。

 

新海自身はとてもショックを受けたそうだが、皮肉にも観客を意識して作った結果、観客に拒否されることになったのである。

 

しかし、新海を天は見捨てていなかった。2011年3月11日、東日本大震災発生。この大悲劇こそが新海誠を国民的アニメ作家へとのし上げる”具”となるのであった。

 

新海自身に大きな影響を与えながらも、当人はジブリ化の失敗から反省し、新作『言の葉の庭』('13)を作り上げる。万葉集を背景にしながらもPV化した映像、圧倒的な作画で描かれる自然の風景と都会のビル群、そして環境と関係の相関。全てを詰め込み最適化された作品は上々の興行成績と評価を受け、そして新海は次作で歴史的偉業を成し遂げる。

 

巨大資本である東宝のバックアップ

川村元気による新海誠のパーフェクト集金装置への変容

10年代前半の細田による地ならし

 

条件は全て整った。そして新海誠は時代の勝者へ羽ばたく。

 

大作画時代の勝者、新時代の宮崎駿は産声をあげるのであった。

 

第2章 セカイと世界

本章では『君の名は。』('16)についての批評を与える。

2-1 筋

 

朝、目が覚めると何故か泣いている、そういう事が時々ある
見ていた夢はいつも思い出せない。
ただ、ただ、何かが消えてしまったという感覚が目覚めてからも長く残る
ずっと 何かを 誰かを探している
そういう気持ちに取り憑かれたのは 多分あの日から
あの日、星が降った日、それはまるで
夢の景色のようで、ただひたすらに美しい景色だった。

 

そんな男女の独白から始まり、RADWIMPSの音楽が開幕を告げる。

 

岐阜県飛騨の糸守町に住む宮水三葉は町長の娘ということで周囲から冷やかしの目線を受けることへの不満を同級生の勅使河原と名取にぼやく毎日を過ごしていた。そして大学進学後は東京に住みたいと強く願い、来世は東京のイケメン高校生になりたいと冗談半分で嘆き散らしていた。一方東京の四ツ谷で官僚の息子としてレストランIL GIARDINO DELLE PAROLE(邦訳すると言の葉の庭)でバイトをしながら高校生活を送っていた立花瀧は、ある日目覚めると、女子高生に変わっていて、周囲の景色も東京のそれとは程遠く、また同様に三葉も目を覚ますと東京在住の高校生に変わっていた。

 

三葉と瀧は、体が入れ替わっていた

 

体の入れ替わりに最初は戸惑うも、携帯に互いに起きたことをメモしあい、入れ替わりをポジティブに楽しむようになった。しかし、その日々は突然終わりを告げる。瀧は瀧に戻ったっきりで三葉になれなくなった。連絡も途絶えたことに不審を抱いた瀧は悶々とした日々の中で、三葉に会うために岐阜への小旅行を計画する。しかし、そこで待ち受けていたのは残酷極まりない現実だった。

 

糸守町はなかった。いや、正確に言えば存在していた、3年前までは。ティアマト彗星の破片落下事故によって町は大半を消失、町民の1/3が死去するという大災害にあい、犠牲者の中に、三葉の名前が記されていた。

 

同時代の入れ替わりではなく3年のラグの存在

遠く離れた距離感

大災害によって失われた三葉を始めとした尊い命の数々

 

悲しみと衝撃に遭いながらも、糸守町を救うために、もう一度入れ替わりを決意する瀧。三葉が奉納していた口噛み酒を飲み、無事入れ替わり三葉に変わった瀧は変電所の爆破による大停電によって住民の大規模避難計画を考案し、友人の勅使河原と名取の協力を取り付ける。しかし町長の説得には失敗する。

 

三葉に入れ替わった瀧と瀧に入れ替わった三葉は黄昏の中にお互いを見つけ、入れ替わりは元に戻る。そして互いを忘れないようにメッセージと名前を腕にサインペンで書こうとした矢先に、互いの名前を書き入れる前に黄昏は終わり、二人は意識を失う。

 

三葉は、糸守町を救うための瀧の計画を実行する。そして父である町長の説得のために必死に走り抜ける。そしてふと見た、自身の腕にはサインペンで瀧の字が書かれていた

 

すきだ

 

その言葉に励まされ、町長を説得(radのBGMで説得で何を言ったのかは不明)し町を救うことに成功する。そしてバタフライエフェクトととして瀧と三葉は互いの名前を忘れ、心のどこかで何かを探しているという漠然な、流星のカケラの一部のような残片だけが残された

 

5年の月日が流れた、東京、瀧は就職、三葉は上京。二人は奇跡的に桜が咲き誇る春の朝に神社の階段の上で再会する、そして感動に打ち震えながら、互いに尋ねる

 

君の名前は?

 

そしてRADの音楽が終幕を告げる。

 

 

2-2 ポスト3.11

 

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ

 

喜劇王チャップリンの言葉である。これは本映画にも通ずるテーマだ。大災害にあっている糸守町から見れば流星群は恐ろしい破壊兵器だが、瀧の住む東京からマクロに見ると美しい流星群に見える

 

そして、この安全な遠くから見た立場と危険な近くから見た立場を逆転させることによって災害に対するメッセージを発出している。

 

新海自身が3.11を作品に落とし込んだ初めての作品である今作は、災害回避という新たなフェーズを入れながらも、ここまで新海が取り組んできた赤い糸ファンタジーや環境と関係や作画と音楽の高出力化、そしてジブリ由来のファンタジーとSF、そして土着的な文化の挿入、が余すことなく構成されている。

 

しかしながら最大のテーマは3.11であろう。2016年のシン・ゴジラと奇遇にも同種のテーマが採用された。シン・ゴジラではゴジラが暴走する福島第一原発のメタファーであり、本作ではティアマト流星群がそれに相当する。

 

シン・ゴジラが徹底してウェットな部分を除去し、役者の属人性の破壊としての演技の余白を徹底的に消し切り日本映画へのカウンターを放ち、死亡という不都合なこともまっすぐ描写したのとは対極的に、清々しいほどの集金理論に殉じ、これまでの新海誠成分で集金に優位な部分だけを残したという意味で綺麗なコントラストを見せている。

 

シン・ゴジラにおける役者への演技の付け方はプリヴィズが用いられ極めてアニメ的であり、2016年はアニメの立ち位置を大きく引き上げたと言える。そして、シン・ゴジラ君の名は。どちらを国民が選ぶのか、個人的には非常に興味深いイシューだったのだが、ご存じ、選ばれたのは君の名は。であった。ヲタク相手のローカルスタイルの庵野、大衆相手のユニバーサルスタイルの新海。二人は2016年を境にエヴァ脱構築、3.11の落とし込みというそれぞれのテーマのもとで3部作を双方ともに作ることになるのである。

 

それが良かったのか、その議論は10年後に譲ることにしよう。

 

2-3 覚醒の理由

 

2-1で筋の大まかな流れを見てもらったが、脚本はいささか不味いように感じる。そもそも3年間のタイムラグに気づかないということがあるのだろうかという部分や、ディアマト彗星による事故という大きな事件、それも数年の間、瀧が物心ついた時に起きた事故を覚えていないといったことがあり得るのか三葉の父親説得も音楽で誤魔化したのも、作劇上の説得として適切な帰着を思い付けなかったことに起因するものなのでないだろうか?

 

このように本作は圧倒的な作画と音楽によって脚本の不味さをカバーする、まさに細田の作り出した高出力で押し切ってしまう大作画時代の名作と言えよう。

 

筋を切らして、音と画で断つといったところか。

 

川村元気新海誠のベスト盤を作ったと表現した。まさに、これまで新海が作り上げて積み上げてきた要素のいいとこどりをして、その抽出要素を最大化したのが本作である。そして、そのことが様々な脚本上の不備を生んでしまってもいる。

 

そもそも新海誠は長編向きの作家ではない

 

長編の2時間弱の映像作品を作るには脚本やストーリーテリングが苦手であるのだ。それは彼自身の創作の始まりが元々、人件費やマンパワーの関係上どうしても短編にせざるを得ず、長編の脚本を書き切る訓練と経験が足りていないことに起因しているように思える。そこに自覚があったからこそ、中東へ向かった際にイギリス留学で脚本の勉強をしていたのだろう。

 

そして細田が”おおかみこども”で誤った自信を有したように、新海も”雲のむこう”で誤った自信を手に入れてしまったのかもしれない。

 

売れるということはバカに見つかるという事。

 

これは有吉弘行の言葉であるが、売れたプロダクトは全て、この言葉に集約されている川村元気により新海誠を”バカでも分かるように”翻訳した物語。それが君の名は。であり、ただそれは新海のこれまでの作風の良いところも悪いところも拡大してしまったのかもしれない。

 

個人的には過去改変によって三葉は救われたかもしれないが数人の犠牲は出ているので、そういった救えなかった人々といった不都合な部分は綺麗な絵柄のノイズになるからなのか隠蔽されていたのも疑義を呈したいところだ。

 

こうした、不都合なものを排除した美しい都合の良い物語と多少の脚本のアラを吹き飛ばせるほどの高出力画像とRADの美しい独白的音楽でカバーし、歴史的な売上を達成したことは偉業であることは間違いない。しかし、新海を好きな人々の間で、変わってしまったと嘆きの声が聞こえていたり、その声は確実に新海の耳に届いていたのだろう。

 

そして、新海は、そうした美しい世界にとって不都合なノイズ、”半地下の住人”をテーマにした社会のあぶれ者の物語を描くことを決めるのであった。

 

第3章 半地下と人柱の物語

本章では『天気の子』('19)についての批評を与える。

3-1 筋

 

これは僕と彼女だけが知っている世界についての秘密の物語だ。それは、まるで光の水たまりのようで、気づけば彼女は病院から駆け出していた。思わず強く願いながら彼女は鳥居をくぐった。あの景色、あの日見たことは全部夢だったんじゃないかと今では思う。でも夢じゃないんだ。あの夏の日、あの空の上で、僕たちは、世界の形を変えてしまったんだ

 

そんな少年の独白で物語は始まる。

 

東京都の神津島での閉塞感のある暮らしから逃れるため家出を敢行した高校一年生の穂高は東京都内の都会へ向かうフェリーの中でオカルトライターの須賀と出会う。東京都に来てからバイトや定職に就こうにも身分証明が出来ず、ろくな集金も出来ず貯金の減りを傍観する日々を過ごし、マクドナルドで働くアルバイター陽菜に商品を恵んでもらう始末だった。穂高はテーブルの下に拳銃を見つける。周囲に見られるとまずいと思い、咄嗟にしまい所持してしまう。

 

苦境に耐えきれず、藁にも縋る思いで穂高は都内で唯一の知り合いである須賀に助けを乞い、IT技術を駆使する労働力として食事付きの住み込みバイトとして働き始める。須賀もかつては家出少年であり、亡き妻との間に生まれた娘である喘息持ちで雨の日は体調を崩しやすい脆弱体質の萌花に愛情を注いでいるが、義母に引き取られてしまいストレスを抱えながら、オカルト記事を寄稿しながら姪の夏美と共に小さな会社を経営していた。

 

そこで忙しなくも、どこか充実感のある日々が流れていた。

 

そんな中で、かつて東京に流れ着いた自分に食料を恵んでくれた陽菜が怪しげな男性2人組に強引にホテルへ連れ込もうとしているところに立ちはだかる穂高、難なく取り押さえられるものの、彼には”武器”があった。拳銃を相手の頭部近傍に発砲、命中はされなかったが、物語と彼の人生の引き金は確実に弾かれるのであった。

 

そこで出会った陽菜の正体と母親を失い困窮しながらも弟の凪と暮らす窮状を穂高は知ることになる。祈りを捧げると雨雲は消え去り、都内の雨は降り止み陽光が差し込んだ。より正確には雨雲と雨量を別座標に転送させる技術だ。この超能力を使ってビジネスを行うことを考える穂高。こうして、家出少年と晴れ女の世界を変革する物語が幕を開ける。

 

100%の晴れ女の噂とビジネスは徐々に話題を呼び、雨雲を消し去り、人々と天空に晴れやかな景色を描き続けるのであった。TVで姿を撮られてしまったことを受け休業、しかし休業理由は、それだけではなかった。陽菜は緩やかに衰弱していた。

 

穂高は未成年誘拐事件として警察の捜索を受け、須賀は娘の引き取りのために裁判所の心象悪化を恐れ退職金を渡し事務所を追い出す。そして陽菜の住居にも警察の手は広がるも、穂高と陽菜と凪の3人は、家を飛び出し逃避を開始する。一方その頃、陽菜の雨量転移の弊害として東京都内に大災害クラスの大雨で都市機能は麻痺しつつあった。

 

行政の追っ手を掻い潜るも、陽菜の体は限界を迎えていた。肉体が消失しつつあり陽菜本人が自身の終幕を覚悟していた。”3人の架空家族”の終焉、陽菜がいなくなれば、東京に降り注ぐ雨は降り止み災害は止まる。残酷な二者択一が迫り、人柱の宿命が飲み込もうとしていた。

 

朝を迎え、陽菜は消え、警察が穂高と凪を捕まえる。警察署を穂高は逃げ出すことに成功し、夏美の助力を受けながら陽菜が能力を得た廃ビル屋上の神社を目指す。同じく警察署を逃げ出した凪、かつての自分を重ね合わせながら駆けつけた須賀の助けを得て、たどり着いた先では陽菜がいた。

 

青空よりも、俺は陽菜がいい

 

天気なんて狂ったままでいい

 

穂高は決意と覚悟を叫び、陽菜は無事に救出される。そして東京は水没し、3年経った今でも雨は降り止まない。

 

保護観察処分を受け島に戻された穂高は3年の時を経て、大学進学を機に東京へ向かう。そして坂道の上で祈りを捧げる少女を見つける。陽奈だった。

 

抱きしめ合いながら、彼は言う。

 

『僕たちは大丈夫だ。』

 

そして雨が降り止まない東京を背景に物語は閉じる。

 

3-2 君の名は。の別ルート

 

新海の作る作品は、どこかゲーム的な気がする。複数の選択肢が提示され、それを選び取った先に待つ未来を主人公たちは享受する。今回は君の名は。とは反転した構造をしている。瀧と三葉は都会と田舎という地理的相違はあれど、食うには困っていない社会の構成員であり、その二人の恋愛を軸として入れ替わりという特殊能力による喜び、その代償となる喪失を経験し、喪失を打ち消す選択肢を探し、最終的に君を忘れて世界を救う物語だ。ただ君の名は。誠実ではないのは、最後に君もとってしまっている部分であり、この部分に新海は変わってしまったと言われたのかもしれない。

 

この批判を受けて、今作では、社会のあぶれ者たちを軸に、ある種の棄民が自分たちの人生の主人公として自己決定を行なっても良い、社会規範に縛られることなく自分自身の幸福追求のための選択肢をとっても良いと主張している。

 

そして君の名は。とは逆に君を忘れずに消さないために世界を犠牲にすることを選び東京は水没することになる。きちんと捨てた代償を見せている。ただ、ここでも不誠実に感じるのは水没した東京での死傷者や苦しむ人は全く介在してこないことだ。

 

捨て去ったものの被害は徹底的に描くべきだし、それでも陽菜を救って良かったのかという真剣な迷いや逡巡は描いて欲しかった。

 

これでは

 

『抑圧されている若者の皆さん、自分の信じる道を進んで、その結果として社会に迷惑がかかっても、なんだかんだで苦しみながらでもしぶとく大人の皆さんは生きていくんで大丈夫でーす、だからあなたの人生の主人公はあなたなんで、お好きにどうぞ』

 

と言っているように見えてしまう。

 

ハッピーエンドに出来ないからこその配慮なのかもしれないが、配慮するなら、そもそも大災害セカイ系に手を出さなければ良いのでは、と感じる次第だ。

 

3-3 人柱となる人々

 

この作品では、前回の”とりかへばや物語”という古典引用と同じく、今回は”人柱伝説”を下敷きに構成されている。災害を防ぐために人の命を犠牲にして回避する。ある意味では前作から続く、個人の命か国土か、というローカルとユニバーサルの対立が描かれてきているので自然な挿入と言える。

 

そして、この構造は新海自身にも言える。自身の主張というローカル性と大衆対象というユニバーサル性の対立の中で、自身の主張を犠牲にしながら大衆向けにチューニングされた作品を放ち2016年、アニメの世界を変えてしまった

 

2019年ごろ、『万引き家族』、『パラサイト』、『JOKER』と描かれたものが同時多発的に似ていることが指摘出来、これらの物語群に流れているのは、コミュニティ全体の発展のために見て見ぬふりされてきた社会から分断され取り残されてしまった民の格差に対する絶望の物語が描かれている。

 

本作では、血のつながらない仮想家族、虐げられてきた社会に対する叛逆、といった共通するものを感じる。帰結こそ違えど、言っていることは同じで、誰かが犠牲になることで成り立つ社会は本当に正しいのか?という問いだ。

 

虐げられた人々に目を向けることもなく、自身の人生の主人公として自己中心的に生きている人間は、利他的な人間の犠牲の上に成り立っているだけで、正義を追い求めるよりも、善意を今一度思い出すべきではないか、という事も同時に問われている。

 

社会が便利なもの、コスパの良いもの、合理主義的を推し進めた結果、捨て去られてしまったものの叫びを聞くべきなのだろう。しかし、人は変わらない。

 

特に、この国、日本においては構造上の不備があっても、その不備を修正するためには強制力を必要とし、強制力を介入させるためには負の前例を生み出す必要があるのだ。3.11原発事故が当時の泊原発上越地震の影響で停止していたための経済状況から堤防設置を渋り事故を起こしたことが問題視されたように、前例がなければ組織は動けないのだ。

 

その意味で、それならば虐げられた人々の社会への反抗は世界を変えるだろうし、それはミクロに見れば悲劇だろうが歴史というマクロに見れば良いきっかけに見えるという君の名は。の構造にも似たものが見て取れると言える。

 

低賃金で働かされる労働者や若者、社会的弱者、彼らが社会に牙を向いた時、その時何が起こるのか、それは2022年安倍晋三暗殺という形で実現された。被疑者は新興宗教2世の立場で、母親の過剰献金によって家庭が崩壊し、その恨みから穂高のように銃弾を放った。その銃弾は日本社会を変え、投票率の低さから組織票を持つ新興宗教団体との癒着を軸として選挙に勝ってきた政権与党のあり方が連日議論されている。

 

しかし、このテロリズム讃美的な理論は危険すぎる。

 

だからこそ、そうなる前に、前例がなくとも強制力を介入させ、事態の収拾に動く必要があるのではないだろうか、悲劇をトリガーにしなくても世界が変わる、そんな未来は訪れるのか。晴れ渡る空のような笑顔には、都会を水没させかねんとする大雨のごとき苦しむ民の涙の犠牲を要する社会の変容、それを新海は訴えたかったのかもしれない。

 

第4章 扉と鍵

 

本章では『すずめの戸締り』('22)についての批評を与える。

 

4-1 筋

 

震災で母を失い叔母の環によって育てられた九州の田舎に住む女子高生の岩戸鈴芽は、いつも変な夢を見ていた。

 

不思議な世界を彷徨い歩く中で母親に似た人物を見つけ、近寄ろうとするところで、いつも夢から覚めてしまう。

 

そしてある登校日、廃墟がどこかにあるか?と聞いてくる不審な青年の宗像草太に声をかけられ、廃村の温泉街を教える。草太を心配した鈴芽は後をつけると、そこに大きな扉を見つける。そして扉の近くにおもむもに置かれた石を土台から引き抜いてしまった。

 

石は姿を変えて、消えてしまう。そんな異常な経験の後、鈴芽は学校へ向かう。

 

平和な学校での休憩時間を緊急地震速報がかき消し地震が襲いくる。鈴芽には温泉街から巨大な物体が這い出ているように遠くから見えるも、周囲の面々にはそれが見えないことに疑問を覚えながら温泉街へ向かうと、そこには草太がおり、協力して命からがら祝詞を唱えて鍵をかけて扉を閉める。怪我を負ったソウタの治療のために鈴芽は自宅に招き入れる。

 

そこで、草太の口から、あの扉は”後ろ戸”であり、その後ろ戸から這い出たミミズが地上に降り立つと大地震を引き起こし、それを阻止する生業、閉じ師が自身の正体と説明される。そして鈴芽が引き抜いた石は要石であると説明していた刹那に要石は猫の姿で出現し、草太を片足の壊れた鈴芽の椅子に姿を変えられてしまう。

 

猫の姿をした要石を追う椅子となった草太を追って愛媛県へ向かうフェリーに飛び乗ってしまう鈴芽。民宿を家族で経営する少女の千果の助けもあって、何とかノープラン旅行を成立させていく最中、猫の姿で周囲の目を引きSNSで”ダイジン”の名前で話題になる要石を追跡する二人は廃校の中に後ろ戸を見つけ無事に閉め、災害を回避する。

 

そして要石を追うように、次は神戸へ向かう閉じ師コンビ。スナックを経営する二児の母であるルミの助けを受けて、ノープラン旅行神戸編がスタートする。そして今度は遊園地の後ろ戸を閉じることになるも、後ろ戸の向こう側は”常世”であり、現在を生きる人間は侵入できないことが発覚する。

 

そして次は、東京へ向かい、閉じ師としての草太の家にある資料から事態解決の糸口を得ようと考える。そこで要石は2つあり、猫じゃない方は東京にあることが判明する。二人の逃避行も限界の様相を呈し、草太の友人で草太の欠席具合を気にした友人の芹澤が自宅を訪れたり、鈴芽の保護者である環からのヒステリックな状況報告を求めるメールが殺到する。

 

そしてミミズが発生、止めようと奔走するも、そこで草太は自身の宿命を悟る。自分自身が要石になってしまった事を自覚し、ダイジンから要石である草太を用いてミミズに刺さないと数十万人規模の犠牲者が出るよ、どうするの?と個人か多数の二者択一を迫る。そして泣く泣く鈴芽は草太を用いてミミズを鎮め危機を脱する。

 

草太の祖父であり、閉じ師であった羊郎は犠牲になった草太は誇りに思っているだろうと述べると同時に常世に行くためには唯一の後ろ戸を通れば行けると伝え鈴芽は過去に通った記憶のある後ろ戸を探して、生まれ故郷の宮城へと向かっていく。その道中に、遂に環に見つかり、草太の友人の芹澤も絡み、複雑なスリーマンセルによる宮城ツアーが始まる。まぁダイジンもいるので3人と一匹のツアー。

 

道中に、鈴芽は環の自身の思いを重すぎると表現し、環は鈴芽を引き取ることはしたくなかったと互いに強くぶつかってしまう。その時に環にサダイジンが取り憑いてることが判明するなどてんやわんやの中、自宅に一人向かっていく鈴芽

 

かつての自宅を捜索すると"3.11"以降が黒塗りになった自身の日記を見つけ、かつて通った後ろ戸のありかを日記から見つけ常世へ入る。そこで巨大ミミズと格闘しながら、自身を犠牲にしてでも草太を取り戻す決心を受け、2人のダイジンは要石に戻り人間の姿になった草太を取り戻し、要石を用いてミミズを退治することに成功し平穏が到来する。

 

全ての時間軸が交わり合う世界において、幼少期の自分を見つける。幼い頃に彷徨っていた際に見た姿を母と思っていたが、それは今の自分であり、過去の自分を助けていたのは”今”の自分だったのだと鈴芽は気づき、幼い過去の自分に椅子を渡し、見送る。

 

宮崎に帰還し、時が流れ、母親の職業であった看護師を目指す中で、あの日と同じ場所で草太を見つける鈴芽。そして彼に向かって声をかける

 

『おかえり』

 

長い3部作は幕を閉じる。

 

4-2 集大成?

 

本作品、新海誠の集大成と宣伝されており、確かに筋を見ても明らかである。物語の構造を見ても、男女の出会い、喪失、復活、帰結の流れも同じ。そして作画は圧倒的。音楽もお馴染みのRadであり、独白要素は消えていたりMV風演出は控えていたが、この作品、分かりやすく表現するなら、君の名は。と天気の子を足して2で割ったものとなっている。

 

ローカルとユニバーサルの2者択一、前者を取った天気の子、後者を取った君の名は。この2つの物語を組み合わせた構造を今回は採用しており、途中までの物語は君の名は。のように全体の幸福のために人柱になる男、そして人柱を解放する物語が後に続く。最後のシークエンスは『TENET』のように時間軸の異なる自分が自分を助けるという展開となっている。

 

前作における若者の犠牲は奇しくも前作公開の翌年に2020年コロナ禍によって実現し、苦しい境遇に対して暴力的な解決を図ろうと安倍晋三暗殺事件が2021年に発生。新海の前作が予言書のように数々の事象と符合している。

 

さらに、本作は、これまで通り、日本の神話的な、地震の発生と要石による災害回避が描かれており、メタを脱ぎ捨て3.11を正面から描こうという気概が見て取れる。しかし個人的には3.11を描ききれたのか、は疑問を残すところである。

 

そもそも3.11とは地震”だけ”のものなのだろうか。3.11とは地震津波原子力災害の3点が複合的に重なったからこその災害だ。

 

君の名は。で土地が壊れる”地震”を描き

天気の子で水害という”津波”を描き

 

残された原発事故”を何故、描こうとしなかったのか。一部では3.11を真正面から描きすぎていたというが、むしろ、自分は描ききれていないのではないかと思うのだが。

 

やたら気を遣っているように見えるが、それなら3.11をテーマにしなければいいし、やるなら原子力事故のメタ物語を3部作最終作ではやって欲しかったので、この志の中途半端さには正直苦しむところである。

 

また、道中に出会う人が、あまりにも性善説に則りすぎており、風景の一部でしかなく、最後のシーンに向けた伏線にさえなれていないのは、お馴染みの長編における大作画作品の筋の犠牲なのかもしれないが、もう少し何か出来たのではないだろうか?

 

本編から愛媛と神戸を抜いても作品は成立するのではないだろうか?

 

これなら東京に向かって、祖父と草太と鈴芽の3人で会話させ、そこで要石を巡る設定の落とし込みと草太が犠牲にならないといけなくなった問題の議論、そして草太の人柱としての覚悟と鈴芽の制止、誰かが涙を流さないと誰かが笑えない世界の残酷な構造への批判、を行った後に、それでも取り戻せる方法があるよ、と祖父が伝え、草太の消滅後に復活を鈴芽は目指すと決意させれば良かったのではないだろうか?

 

また、君と世界の二者択一に関しても、これは君の名は。でもそうだが結局のところ、何も選んでもいないし、両得してしまってる問題も今回発生していた。せっかく天気の子で失ったというのを描いたのに、また振り出しか、いったところだ。草太か地震のどちらか捨てたものをきちんと描かないのは、残酷すぎるかもしれないが”逃げ”にしか思えない。

 

大衆に迎合するために二者択一の両得に落ち着いてしまうというのも、そういう意味では”集大成”なのかもしれないが。

 

原子力災害をメタ構造に取り込んだ、それこそシン・ゴジラのような設定で、君の名は。が君も世界も取る物語、天気の子が君を取って世界を捨てる物語だったのなら、残された最後の構造である、世界を守るために君を捨てる物語、これをやるべきだったのではないだろうか。ここに真っ直ぐ取り組んで欲しいと思っていたので非常に残念な設計だった。

 

 

4-3 シン・海誠

 

本作、一言で言ってしまうと、新海誠のベスト盤のベスト盤になっている。前2作という新海誠の良い部分の抽出成分をさらに濾過して濃度の濃い新海作品となっている。そしてだからこそ構造は全く同じだ。

 

男女の出会いと関係の構築

愛する男or女の喪失

喪失を取り消す試行の模索

結論の享受

 

しかし濃度が濃いため、今までのメタファーのオブラートが破けて露呈するようなテーマ性が見える。3.11である。これは明確に描かれてしまっている。そしてこれは良くも悪くも観客の知性を相当に低く見積もっている出来であり、ある意味では大衆向けに特化し続けた必然の帰結と言える。

 

作品とは言わばメタ構造の発明に等しい。もちろんドキュメンタリーもあるが、作為が挿入されたならば、そこに主張が発生し、その主張を直接的表現を用いずに観客に訴えかけるメタ構造を発表するのが作品であろう。

 

夏目漱石がI LOVE YOU を”月が綺麗”と表現したように、暴走するF1原発ゴジラとしたように物語とは間接性の追求が最大の論点になる。しかし今作はメタがほぼない。RADの音楽に独白を譲らずMV的な編集もミニマムになってしまっているので、説明的な映像が多く、どうしても映像視聴ハードルの異常な低さが引っかかる。

 

ただ新海本人としてもハードル下げは本意ではないのか、今作は”赤い糸”の存在が薄い。それは新海としては3.11を風化させずに悲劇の結末を受け入れる物語を描きたかったのだろう。ただ大衆向けという後ろ髪を引く引力が作品を中途半端なものにしてしまってもいるが。

 

言わば新海は君の名は。を何度も作り直しているだけなのだ。3.11をテーマに大災害の回避というユニバーサルな悲劇回避ゲームとキミとボクの物語をリンクさせるセカイ系作品として赤い糸災害回避系を3作作り上げている。ここに試行錯誤は見えるが、ある意味では作品のメタ構造を破壊し続けてきたと言えよう。

 

血も涙もない表現を使うと、バカの涙を誘うために作品のハードルを下げ続け集金に徹しながらも、それでも”作家”としてのささやかな抵抗を込めてきた3部作の終点が本作なのだろう。

 

終わりに

 

新海誠の大災害回避赤い糸ファンタジー3部作、全ての鑑賞後の自分の感想は

 

次の作品で新海誠の真価が問われる

 

であった。

 

なぜなら同じことをし続けてるだけだから。同じ構造物をひたすらに作っているだけで、そのブラッシュアップもアップデートというよりはファインチューニングに近く、そこに構造変容を見出すまでには至らないからだ。

 

自分はとても心配している。

 

ガンダムを作らされ続けおかしくなった富野由悠季

エヴァを作らされ続けおかしくなった庵野秀明

 

と同様の道を辿って欲しくないのだ。

 

一旦はユニバーサルな大衆向けから離脱し、ネットフリックスでオムニバススタイルの短編集となる映像作品を作った方が作家寿命を考えても良いと考える。

 

大衆に迎合せず、視聴者の”予習”を前提に一番得意な脱構築に徹することで庵野秀明エヴァの人からの脱却を見せた。

 

新海は3.11三部作の後に、どこへ向かうのだろうか?

 

大作画時代が支配する今、庵野と新海のブレイクとなった2016年を契機にアニメ映画の興行成績はインフレ化し、作画の出力は上がり続け、音楽と作画の高出力を軸とした作品の支配力は上がり続け、その帰結が2020年の鬼滅による歴史的快挙だ。

 

実は、次の覇権の概形は皆、理解しているはずだ。

 

高出力の作画と音楽に完備性のある脚本を付加したもの。これが次の覇権を担うことは誰もが分かっている。だからこそ細田は苦手な脚本制作に挑み続けているのだろう。新海もこの両取り路線に乗るはずだ。

 

さらに、庵野細田も新海も共通していることとして、演技の属人性の破壊がある。肉人形劇を見せたシン・ゴジラもそうだが、演技力は所詮個人の感想に過ぎず、最小限のセリフであれば違いもミニマムに出来る。細田と新海はディレクションでカバーする形で経験不足の若手タレントを声優に使うこともある。おそらくだが、ここで浮いた金銭を作画と音楽に注ぎ込むためなのではないだろうか。

 

作画と音楽は結局金がかかる。そうなるとかつての新海のような辺境からの革命家の出現を封殺してしまうのは皮肉なのだが。

 

果たして次回はどう打って出るのだろうか、3.11大災害回避ゲームは満腹なので次こそは新規性の提出に期待したい。