牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

まごころをこめて『執着の円環』に終結を。(シンエヴァ評論)

『僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。作品自体を娯楽の域に戻したかった。』

 

上は庵野秀明朝日新聞be上の発言。新劇場版エヴァンゲリヲン最終作は、エヴァの明朗活劇化、庵野主宰スタジオカラーの集金、そしてアニヲタへの最後通牒、それらを背負い、前作Qから9年もの時を経て公開された。

 

 

①筋の分析

 

シンエヴァは4章からなり、

1. パリ決戦

2. 第3村での再建

3. ヤマト作戦

4. 父子決戦

 

155分の長編アニメ映画の本作、東映東宝共同配給という護送船団方式で臨んだのに、上映時間2時間程度の上映本数劇的増加可能スキームを捨て去ったのだから、集金よりも描きたいものがある、と構造から伝わる。

 

小さく分けると4章だが、大きく分けると2編。前半(1,2章)が失声症を患ったシンジ再生の物語、後半(3,4章)は決着の物語

 

死の街と化したパリ解放のためのヴィレとネルフの戦闘から始まり、農村でのチルドレン達の再生と生命の物語が描かれた後にヤマト作戦と呼称される南極でのアディショナルインパクトのトリガー破壊を目的とする戦い、その後にシンジとゲンドウの父子決戦によって決着を迎える構造が採用。

 

4章の各分析を以下に。

 

⑴パリ決戦

 

ユーロネルフ第1号封印柱の復旧作業により旧ユーロネルフ保管のエヴァ修理部品回収を目的としたパリ解放作戦から始まる怒涛の展開。庵野作品には良く見られる早期の事件発生、という有名な文法で(シンゴジ、Qを参照)、Qと地続きから始める事で連続性を帯び、Qありきで進むという強い表明と取れる。

 

なぜパリ? 旧劇TV版放送前最後に手掛けた作品ふしぎの海のナディア』、そのクライマックスの舞台がパリエヴァに終止符を打つため始点としてナディアのクライマックスの舞台を採用するのは必然でエヴァ庵野私小説と言われる所以だ。単純にパリのエッフェル塔を用いた攻撃がしたかっただけ、という可能性もあるが笑(シンゴジの在来線爆破のような)。

 

戦艦の上に光る糸は特撮にて戦艦のミニチュアを糸で吊るしているのが見えてしまうというかつての実情を表現したもので、本作が虚構である事を強調し、重要なメッセージを放つ。

 

 

⑵第3村での再建

 

ニアサードインパクト(劇中でニアサーと呼称)の影響で避難を余儀なくされた人々が形成する第3村(3.11による避難民の居住区のメタファー)にて、かつてのシンジの同級生、ケンスケ、トウジ、委員長ヒカリ、との邂逅が描かれる。

 

これまで庵野が受け入れてこなかった宮崎駿的な土着自然描写も採用され、今まで庵野は特にエヴァにおいて自然よりも都市や無機物の描写が多かったので驚いた。

 

第3村の人々はQにおけるニアサーの絶対的被疑者としてのシンジへの痛罵ではなく、『良く頑張った、ゆっくり休め』という優しい言葉をかけ、無垢な生命の営みの中で、アヤナミレイ(破の綾波とは別人)は知恵をシンジは勇気を(オズの魔法使いにも重なる寓話的フロー)、各人求めたものを得てアヤナミは消えシンジは戦いへ向かう。

 

上映時間の大幅拡張は、これのせい笑。Qの衝撃からシンジが復活するまでを丁寧に描き明朗活劇の特異点Qを肯定する宣言であり、明朗活劇としての新劇は副次的イシューで本筋は別、なのかも。

 

ケンスケはアスカからケンケンと呼ばれ同棲匂わせがあったり、トウジとヒカリが婚姻関係にありツバメという子供も登場し、シンジが眠っていた14年間の年月の重みを感じると同時にアスカとシンジのカップリングといった2次創作的なヲタ趣味に対する意見めいたものを感じさせる

 

表現技法として実写役者の動きをトレースし落とし込むキャプチャー式が採用され自然描写は手書きの宮崎風のタッチで営みは有機的な動き、しかしゲンドウたちの無機的な思想は徹底的にCGや3D技術が使われ、有機生命体と無機的価値体系の激突という二項対立が表現される

 

 

⑶ヤマト作戦

 

インパクトのトリガー、13号機破壊のためミサト率いるヴィレは南極のネルフ本部を急襲、アスカが左目の封印を解きATフィールド中和を図るも、想定し計画に織り込んでいた冬月により13号機は覚醒しブンダーも乗っ取られ敗走する、というQでも披露された、頑張れば頑張るほど事態が悪化するカタルシスレス

 

ヴィレとネルフの激闘

悲しみに暮れるシンジ

友の助力で希望を抱く

奮闘虚しく残酷な結末

 

シンは途中まで面白いほどQの再生産。しかし物語はQの絶望的帰結から変容する。

 

人間を超越したゲンドウがヴンダー上でミサト/リツコの前に出現しマイナス宇宙へ13号機に乗り込んで初号機と共に沈み、シンジは初号機に乗り込む決意を固め、船員の制止に合うも船長ミサトの『私が責任を取る』の一言を受け戦いへ挑む。Qになかった希望を得るためゴルゴダオブジェクトにて父子対決へ進む。

 

海、大地、魂の浄化が人類補完計画で立案者はミサトの父親である事も明かされ、亡き妻ユイを取り戻すためゲンドウは虚構と現実の合一を目指す新たなインパクトを起こす(『NARUTO』のうちはマダラによる月の眼計画的)。

 

マイナス宇宙はウルトラシリーズからの引用で、光速を超えた先の世界と定義され、そこに存在するのがゴルゴダ星。ゴルゴダはキリストが磔に処されたゴルゴダの丘からの引用で、贖罪をキリストたるシンジが行うという構図に合わせゲンドウと向き合いメシア(救世主)となるシンジの未来を暗示する(13号機の13という数字も意味深)。

 

 

⑷父子決戦

 

マリの改8号機に搭乗しマイナス宇宙を目指すシンジ。破で取り残された髪が異常に伸びきった綾波レイの魂を初号機に乗り込んだ時に見つけ、シンジにエヴァに乗らずに済む未来を作れなかった事を謝罪するも、シンジはエヴァに乗らなくても良くなるようにシンジを拒むようシンクロ率を0としていた綾波の防衛に感謝を伝え、もう一度エヴァで戦う事を決める。

 

ゴルゴダオブジェクトでは人間の認識が追い付かず情報は既存の記憶として認識され、過去風景の中でシンジの乗る初号機とゲンドウの乗る13号機の対決が繰り広げられる。旧ネルフ本部、第3東京市、ミサトと同居していたアパートの一室を背景に槍を交える(槍は男性器のメタファーとも捉えられ槍の激突は男同士の決闘に相応しい)。

 

戦闘背景がスタジオ撮影をしているかの様な演出がなされていて明確にエヴァンゲリヲンは虚構の物語である事が強調されるゴルゴダオブジェクトはエヴァを製作し続けていた『裏方』の世界なのだろう。

 

肉弾戦闘で決着が付かずカシウス/ロンギヌスの槍で虚構と現実の統合を目指すアディショナルインパクトが発生し冬月はLCL化。ミサトはヴンダーの脊髄からガイウスの槍を創生し命を捨てシンジに槍を授ける。ユイの魂との再会のため全人類を一つの生命体へ集約する補完計画発動の必要はなかった、ユイの魂はシンジの中にあったのだから。

 

ゲンドウは敗北を認め、電車の中(精神世界)でシンジに懺悔し電車を降り(計画から降り)、シンジは自身を犠牲にエヴァのない新しい世界線の建築を試み(火の鳥路線で世界再構築という予想は少しは当たっていた)エヴァに執着する世界と自身に執着するアダムの魂である渚カヲルリリスの魂である綾波レイを解放する。

 

愛を求めたアスカに過去形の好意を告げ、シンジの救済に執着したカヲルには感謝を述べ、シンジがエヴァに乗らなくても良い世界を求めたレイにはエヴァのない世界を宣言した。シンジは旧チルドレンとの救済同窓会の後、贖罪のため自身(初号機)を犠牲にし13号機を貫く。その時に碇ユイの魂がシンジを初号機から追い出し、ユイとゲンドウの両親の献身によって全エヴァは消失し、新劇場版の世界線世界線)は消失する。

 

そしてγ世界線では駅のホーム(電車=乗り物に乗る世界=エヴァの既存世界線)でシンジとマリが仲睦まじく話し合い、向かい側のホームでカヲルとレイが談笑し、離れた場所にアスカ。宇部新川駅(庵野秀明の実家の最寄り駅)でマリに手を引かれながらDSSチョーカーを外したシンジは駅の外へと飛び出していく。キャラクターはアニメーションだが背景は実写という虚構と現実の入り混じる世界線を駆けだして終劇する

 

シンジの声は緒方恵美でなく、神木隆之介で、エヴァフォロワー新海誠の『君の名は。』オマージュ。宮崎フォローを受け入れた庵野が自身のフォロワー新海への愛情溢れる描写を与えている。

 

『だーれだ』そうマリに囁かれ、『胸の大きい、いい女』シンジが、戸惑いを見せず冷静に返す。彼の思春期はβ世界線に置いてきたのだ。

 

エンドロールと共に宇多田ヒカル『ONE LAST KISS』が流れる。歌詞はゲンドウのユイへの思いにもダブり、執着というゲンドウだけでなく本記事冒頭で述べたアニヲタのエヴァへの執着にも重なるテーマが歌われている。そして序破のテーマ曲Beautiful worldが流れる、タイトルに付された反復記号に従うように。個人的には残酷な天使のテーゼを流して欲しかったが、そういうエヴァヲタ向けの過剰サービスの放棄も、また本作のイシューを考えると納得できる

 

 

 

②シンの主張

 

(1)ユダ(マリ)とキリスト(シンジ)

 

新劇は裏主人公がいて

 

序  綾波レイ

破  式波アスカ

Q   渚カヲル

シン 真希波マリ

 

この流れは予想していたので父子決戦においてゲンドウの過去パートの中でユイ、ゲンドウ、冬月、マリの4人衆の絡みが中心になる事は想定はしていた。

 

しかし想定を大きく超え、マリは大きな役割を担い、劇中で冬月が呟くイスカリオテのマリア』、つまりイスカリオテのユダ、即ち裏切者でもありながらマリア、即ちキリスト(シンジ)の母(護衛者)である役割を担う。

 

ゲンドウグループ4名の計画、補完計画による人類の昇華プロジェクトを阻害しシンジ(キリスト)をゴルゴダ(の丘)へと誘うユダとしての立ち回りに加えマリアとしてシンジを守護しラストシーンでは彼を現実世界へ連れ出していく。

 

レイ、アスカ、カヲルとシンジのカップリングを妄想し楽しんでいたファンをあざ笑うかのような通称マリエンドの本作、小さくない嘆きがこだましているが、旧劇のチルドレンではなく新世紀(新世代)のマリとの帰結としたのは旧劇で放り投げたものに庵野自身の手で『落とし前を付ける』意味なのだろう

 

キリストとしてのシンジは父の懺悔を受け、ユイへの執着を槍で穿ち父を救済し世界を救い、世界/セカイの救世主となる実存主義の問い『人は何故生まれるか?』という問いに関してイエスのようなユニバーサルなメシアではなく、誰かの救世主になる事にある、という思想が反映された事は自分の思想と小さくないシンクロを感じた。原罪と贖罪を巡る実存主義的疑問への解答を与えた、と見て取れる。

 

 

(2)虚構の暴力性への警告

 

シンエヴァ最大の主張と言えるのが本記事最初に付した『アニヲタが依存する場所』としてのエヴァを閉じる事。90年代の殺伐とした空気を象徴した旧エヴァ同様に新劇も虚構が揺れ科学技術の発展に伴い現実との境目が曖昧な現代を象徴している。

 

庵野虚構の危険性を訴える、庵野自身もQの製作で再起不能にまで落ち込んだ。アニメでの出来事に一喜一憂し没入していくのはアニヲタの習性だが、その危険性と虚構との適切な距離感を設ける事の重要性を示しディスタンスを要請する。

 

父子決戦にてウルトラシリーズの撮影に使われた東京美術センターを想起させコンテを剝き出しで使ったり、エヴァは虚構に過ぎないと強調。現実から逃げ制御可能な美しい無機的世界観に惑溺する危険性への警告と人生を狂わせてしまうほどの暴力性への自戒を込めた反省をしていた。庵野自身も設定考察厨に警句を投げ、矛盾なく説明するのは困難で、わざと設定を非体系として完成させていないと語っている。

 

エヴァを熱心に応援してくれることはありがたいが、現実から目を背け無機質な画面を見続け人生を無駄にしてほしくない、自分もオタクだからこそ理解はできるけど、皆も僕のように(キリの良いところ=最寄り駅)で(乗り物=エヴァ)を降りて現実世界で生きて欲しい、と語りエヴァ卒業を我々に突き付けた

 

『色々な人の人生を変えてしまった事を申し訳なく思う、(アニメ作家は)そんな誇れるものではない庵野の言葉が頭を巡る。

 

 

(3)TIME UP

 

旧劇において禅問答のような様々なコンフリクトを悩み抜きダイレクトで前衛的な心理描写と抽象的記譜による独自解釈理論の乱立に伴い90年代のモニュメントとなったエヴァ。その円環の如き堂々巡りの問答に対してシンエヴァは主張する。『距離を取り時間が経過すれば、その問いを考える事の意味が無くなっている』

 

小さい頃に死ぬほど悩んでいた事が時の経過に伴い重要性を消失する経験をした事は少なくない。エヴァに乗って戦うのか/逃げるのか、『逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ』に対する答えは『エヴァの無い世界を作り問題設定を破壊する』であった。

 

世の中には答えのない問いで溢れている。シンエヴァにおいて葛藤や問いを捨て去れない面々は悉く退場していっている。冬月ゼミの面々(ゲンドウ、冬月、ユイ、マリ)の内、生き残ったのはエヴァに乗る意味といった問いに無関心だったマリだけ。

 

エヴァが提示する様々な問いに対する答えはなく、それは円環故の永遠の未解決問題としてのエヴァと解答付属の相性の悪さがある。しかし落とし前を付けなくてはならない、距離を取り時間をかけ、問いの価値が減退するまで待つしかない。14年というシンジの冬眠期間にアスカはケンスケと懇意になり『付き合い』を覚えシンジへの執着から解放され、クラスメートの面々はエヴァに乗る/乗らないといった問いを考える余裕もないほどに忙しない日常と向き合う。溺れているときに悩んだりなどしない、人間はそんなものだ。

 

エヴァという虚構世界への執着を捨てる事が出来る人間は生き残り、そうでない人間は死ぬ、それがシンエヴァの提示した冷めた諦念的な帰結であった。父への思いを背負い散ったミサト、ユイへの執着を解決は出来たものの捨てなかったゲンドウ、補完計画に拘った冬月、彼らはエヴァを捨てる事が出来なかった。エヴァを捨てる事が出来る人間だけでγ世界線は作られた。

 

シンエヴァエヴァを終わらせたのではない、エヴァについて考える時間が終了したという庵野エヴァ問題の放棄に等しい宣言でしかないエヴァと向き合う意味が庵野の中で消失したのだ。

 

終わらない事が正解の物語を終わらせる問題に対し問題の意義自体を減退させる。作劇はポジティブなものであるが採用された構造自体は極めて後ろ向きなものと言える。

 

『さようなら、全てのエヴァンゲリオン

 

それは全ての考察、全ての仮説、そして庵野自身の中で生まれた無数のエヴァの樹形図の如き帰結へ向けた経路の放棄だったのではないだろうか?

 

 

③新劇とは何だったのか?

 

 

(1)旧劇VS新劇

 

そもそも新劇は旧劇を発端とするアニヲタの虚構世界への歪んだ執着を破壊し、未遂に終わった閉じた物語を明朗活劇路線の下にリビルドするために製作された。今作はQの悲劇を否定せずQと同手筋で物語を動かし帰結を与えるQ改訂版と言える。

 

明朗活劇としての完備性は捨て執着除去に徹しゲンドウのユイへの執着、アニヲタの虚構への執着、庵野自身のエヴァへの執着を終わらせることに注力した。故にQから見事に着地させ複雑な記法乱発や行間のある筋を採用しながら『卒業』というメッセージのもとトータルで見れば破滅的Qの続編として素晴らしい着地をした。

 

ただQを上書きした構成のシンで同じことを2度も繰り返す必要があったのか、このロスは小さくなく4部作の評価を下げ、着地はうまかったとはいえ4部作としての完成度は高くない。Qを無きものとしてQ'として3部作構成にした方が良かったと思う、まぁシンが事実上のQ'の役割を成すので事実上の3部作とも言えなくもないのだが。

 

そして旧劇と比較すると着地の上手さと幕引きの美しさは向上した一方でQの失敗が響き明朗活劇化には失敗したためエヴァに求めるものが何かによって変わり幕引きの上手さを求めるなら成功、明朗路線なら失敗、説教臭い正論なんて聞きたくないという人からは毛嫌いされる。

 

○旧劇が提唱した現実的な価値体系である人間の相互理解の困難さから来る絶望

○新劇が提唱する理想的な価値体系である人間の相互理解の可能性から来る希望

 

この対比が

 

〇絶望の槍を持ち戦うゲンドウ搭乗の13号機

〇希望の槍を持ち戦うシンジ 搭乗の初号機

 

この両者の戦いにて13号機に勝てないシークエンスは旧劇以上の主張はない、という旧劇との思想対決に対しての白旗宣言と取れる。庵野はあくまでも旧劇の主張の強調と明朗活劇の両立を目指した、旧劇を超えるカウンターの思想を提言出来なかったことへ不満を持つ観客は少なくないだろう。

 

エヴァとは終わらない円環の物語で、終結を与えるのは本来は不適切で、リアルに殉じれば絶望的なシークエンスを与えるしかない。そんな中で落とし前を付けるのは極めて難しく、そういう意味でベスト無き世界でベターを選択する事に注力したのだろう。

 

スターウォーズがリビルドされても無茶苦茶デカいデススターを破壊するスキームから逃れられなかったように、エヴァインパクトを止めるために槍を穿つというスキームしかないという、ある種の限界も示していた。

 

 

 

(2)作画時代におけるシンエヴァ

 

現アニメ界は作画時代で、新海誠の『君の名は。』の大ヒットと鬼滅の刃の歴史的ヒットで、この流れは決定的なものとなり作画に金と技術力を注ぎ込むのが主流だ。色々な意味で話題になった『えんとつ町のプペル』も吉本興業という巨大資本とスタジオ4℃の技術力の融合によるヒットで、20年代アニメのトレンドは資本力と技術力の統合がメインストリームと考えられる中で庵野秀明細田守宮崎駿といった作家たちが、どのような作品を打つか、は今後のアニメ界を左右する。

 

エヴァQやシンゴジラでもモーションキャプチャーを用いた映像やプレヴィズによる規定を使い、出力の高い作画力を披露し、東宝東映共同配給の資本力と『上手い人しかいない』スタジオカラーの統合による現行トレンドをフォローした出来となっている。シンゴジラにおいては実写作品においてアニメ的な手法を持ち込んだが、今回は逆に実写作品的な手法がアニメに導入され、破の頃から構想しシンゴジラで本格実装した2次元と3次元の融合がシンでも盛り込まれ、虚構と現実が入り乱れた現代情勢に符号する。

 

特撮映像の良さと実写映画の良さをアニメ映画に導入しようという試みは斬新で作画時代のトレンドに応えながら独自路線となるアングルや芝居設定は、これからの庵野作品でも追求されていくだろうし、シンエヴァが他の作家に対して、この部分で影響を与えるかもしれない。また新海誠フォローから連なる過剰に美化された絵面に関して明確に否定的な立場を取り、美しさを『盛った』様相は呈していない。美しすぎる無機的世界観の暴力性への警鐘を込めたのだろう。

 

 

 

(3)これからの庵野秀明

 

新劇場版は紆余曲折を経て完結したが、その過程で庵野はリビルドシリーズという脱構築作家として最適任の仕事を見つける、それがシンゴジラ。圧巻の出来であった事は周知の事実。次に手掛けるのはシンウルトラマンで、このシンリビルドをどこまで作り上げるのか分からないが、脱構築技法をこれからも駆使し映像作品を作りながらアニメと実写の垣根を超えた貢献を果たしていくのだろう。

 

シンエヴァ庵野秀明の最後のアニメ映画になる可能性は低くなく、今年で61才という年齢と作品にかける年数(3,4年ほど)を考え、残りの作家生活期間中に生み出すことのできる作品数は片手で数えるほどしかない可能性が高く、リビルドで確度の高い作品選びが求められてくるだろう(ゴジラウルトラマンと来ているので次はヤマトか?)。

 

ここで2021年の初夏に公開予定のシンウルトラマンへの自分の概観を。

 

特報映像とポスター画像が公開されカットと画が庵野らしく、ウルトラマンのデザインとして成田享の初期デザが採用されカラータイマーがなく、着ぐるみのファスナー隠しのための背びれもない。怪獣としてネロンガガボラが使われているのはエネルギー問題への提起を感じさせ、ウルトラマンも怪獣も一個体で進化していく可能性もある。

 

機動隊の出現を見るに、怪獣だけでなく異星人の登場も期待され、作中ではレヴィストロースの『野生の思考』(未開人の行動原理には合理主義的な指導原理があるのではないかとする構造主義的書籍)が登場し、真の敵はダダ、と予想している。

 

そもそもウルトラマンは襲来者の駆除を外部に委任するしかない防衛体制という日米安保の皮肉にもなっていて、日米問題の政治的カリカチュアとも出来るし、異種生命体との共存問題を語る事も出来る

 

個人的な予想としてシンゴジラと7割方同じことをすると思われ、それはQとシンが構造的にそっくりなエヴァと同じ。襲来に伴う政治的シュミレーションの構造と電気エネルギーを捕食するネロンガ、ウランを捕食し放射線を放つガボラは3.11メタファーとしての暴走する福島原発シンゴジラと全く同様の手筋を採用できる

 

重要なのはシンがQと同手筋から決着という付加要素があったようにシンウルトラマンにも付加要素がシンゴジラから足され、ダダとおぼしき人間サイズの異星人との対決になろうと思われる。またセブンのような政治的要素の強い物語を挿入し日米問題への提起へと加速する可能性もある。

 

庵野は何を作ってもエヴァにしかならないと言われた。それは、恐らく彼の中に良い意味でも悪い意味でも『オリジナル』がないからだ。おびただしいほどの引用で成立する氏のデザインを考えると、シンシリーズは全てシンゴジラと酷似するはずだ。逆に、そこから、どう差をつけるか、が注目ポイントになるだろう。

 

まとめるとシンウルトラマンシンゴジラと大方同じだが最終章だけが異なるはずで、そこがどうなるか。シンエヴァのように成功するか個人的に楽しみだ。

 

 

 

④最後に

 

エヴァが終わった、終わってしまった。エヴァを卒業したという達成感そして無事に完結を迎えたことへの安心、という様々な感情が渦巻くがエヴァロスのようなものは全くない。自分自身が大学卒業という時期にあった事も含めてタイムリーに『卒業』を強く感じ、これだけのエンタメ作品を見ることが出来た事に喜びを禁じ得ない

 

勿論、本作に不満を感じる方もおられると思う。それも少なくなく。

 

シンエヴァに対する評価の賛否は、エヴァに対する『距離』で決まり、コロナ禍の不思議な一致に運命を感じてしまうのだが、自分はエヴァに対する視線としては脱構築手法への興味が強く、ユニバーサルレスな現代における脱構築手法的思考を持つ人間として庵野秀明に興味を持ったまで。故にシンジが誰とくっつこうが庵野私小説的側面が強くなろうがどうでも良いし、特撮や日本映画や既存アニメの要素を抽出し並べ挙げる映像芸術として成立していれば何の文句もない。

 

エヴァQの公開年にエヴァを知りハマリ期待して劇場に足を運んだのに破滅的カタルシスレスな作品を見せられ、何故事故は起きたのか、という疑問から更に強く庵野秀明に興味を持った人間としてリアルタイムで観たエヴァ作品がエヴァQのみ、という悲劇を回避してくれてありがたさしかない笑エヴァをオタクの依存対象から娯楽作品へと引き戻す当初の目標が達成されたかは分からないが主張は伝わった。虚構に適切な距離感を取る事、僕自身も肝に銘じて生きていこうと思う。

 

抽象的な記譜の羅列により過熱し議論したくなるエヴァであるが庵野本人が言うように過度な考察に意味はない。エヴァ庵野私小説ゆえに人生の一種のメタファーで、絶対的な正解など存在しない、君が選んだ答えを正解に導く物語こそが君の人生だ、とシンエヴァという卒業式において庵野校長からの贈る言葉だったように思える。

 

ラストシーンの宇部新川駅でシンジとマリが降りていくシーンは『じゃあね、僕、この辺で降りるね、』と言いながら庵野監督が最寄り駅(エヴァという計画)から降りていき終わらない円環に終結を与えたように見え思わず泣きそうになった。庵野秀明という稀代の脱構築作家のエヴァ卒を見る事が出来て本当に良かった。お疲れさまでした。

 

 

 

 

終結に、ありがとう

 

執着に、さようなら

 

そして、全ての卒業生(チルドレン)に

 

おめでとう

 

 

終劇