牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

『違い』が招く『平等』の終わりの物語(五等分の花嫁評論)

 

 

①作品概要説明

 

『五等分の花嫁』は、高校留年レベルの成績不振に苦しむ外見がそっくりな五つ子(一花、ニ乃、三玖、四葉、五月)姉妹の家庭教師を担当する事になった上杉風太郎を主人公とする青春偶像寸劇。作品冒頭で風太郎は五つ子の誰かを花嫁にする未来が明かされ、誰を花嫁にしたのか、どのようにして結ばれるのか、を描く物語。

 

お姉さん気質で少しズボラな、女優を夢見る一花

料理が得意で姉妹思い故に風太郎に強く当たるツンデレ二乃

引っ込み思案の歴女だが言う時はハッキリ言う三玖

元気なスポーツ少女だが、どこか陰のある四葉

食いしん坊でしっかり者だが要領の悪い五月

 

といった個性豊かな五つ子が織りなすハーレムものとしての面白さに加え、母親の遺言である『五人一緒』の呪縛に囚われた共産主義的集団が風太郎への恋心を共通に有する事と個性の獲得により壊れていく、というユニバーサルに誰しもが経験する理想郷の衰退の物語だ。

 

作中に散りばめられた数々の伏線と描写は秀逸で、花嫁決定の流れも計画的な筋の上に成り立ち、手垢のついた筋を中心に圧倒的な作画による作品がトレンドの中で筋で勝負できる数少ない佳作であり、是非、ご一読いただきたいので花嫁決定や詳しいストーリーに触れず、『五等分の花嫁』を叩き台に幾つかのイシューに触れる。

 

 

 

②現実よりの使者との邂逅

 

風太郎の現実

 

風太郎は作中ではリアリズムの権化で、勉強熱心だが、学問の探求目的でなく、大学受験勉強に過ぎない。彼は知っている、持たざる者が日本社会で安定的な生活を送るためには学歴しかないことを風太郎は貧しさと現実を知っている。母親は死去、父親は低所得肉体労働者、幼い妹もいる家庭で学費を払うのに必死。日本社会の現実を家庭から学んだ、資本で生活は安定し、資本は圧倒的才能を除き、学歴により獲得される仕組みを。

 

資本格差が学歴獲得(受験)での小さくない差になる。風太郎は家にTVもなくコピー機も買って貰えず塾にも通えない、そんな彼が勝つには受験勉強以外にかける時間を削るしかない。持たざる風太郎が将来を勝ち取るためには受験勉強に出来る限りの時間をかけるしかない。恋愛は学業から最も離れた愚かな行為、という彼の発想は資本主義の片隅の貧困家庭の中で作り上げられた現実主義の現れなのだ。

 

五つ子のモーションに気づかない鈍感さも、高校初頭時期まで勉強に集中していた事で他者から『付き合いの悪い取っつきにくい人物』と見られることへの自己防衛として他人への関心を絶つ習慣が染みついた事の弊害なのではないか。

 

ゆたぼん氏の存在から教育の意義についての議論が白熱しているが、学歴を要さなくても人脈や才能で集金が可能ならば学校へ通う意味などない。学校へ通うのは才能の無い凡人の食い扶持獲得の為の箔付けでしかないのだから。

 

大学全入時代も学費欲しさに大卒ブランドを維持したい大学側と4年以上時間を潰してくれて人件費を落せる企業側の談合の産物で、食い扶持を見つけられるメドが立つなら学校へ通うのは無意味に等しい、ただ僕や風太郎のように才能に恵まれなかった凡人には学歴がないと食い扶持が見つからないのが実情だ。

 

晩婚化も半強制的学業従事年数の軽減をすればよいと思うが、この力学はいかんともしがたいのだろう。

 

(2)五つ子の理想

 

戦争は何故起こるか、それは略奪/侵攻行為のメリットが戦闘行為による被害を上回ると判断されるから。国民人口の増加に資源や食料や領地が追い付かない事が主因。生まれた土地による食糧供給度や環境の差異といった部分が人口が増加する事で看過できない事態を招くのが戦争の最大のトリガー。

 

個体差や生息地域の格差がなく、少数人口の集落なら?

 

戦争や紛争が起こりづらい平和条件を満たした好例が中野家の五つ子。風太郎と同じく母親を亡くすも父の圧倒的財力により五人で仲良く五等分して生きる、という共産主義思想による理想主義を生きている

 

四葉の成績不振による集団退学も、通う学校を学費や通学費といった部分を考えず実行出来る財力の為せる業で、風太郎とは異なり幼い頃の母と過ごした貧しい日々よりも物心ついてからの金満ライフが与えた影響は大きい。

 

 

 ⑶理想郷の揺らぎ

 

そんな理想主義は風太郎というリアリズムと成長による個体差の発生から崩れ去り、理想郷を支えてきた全員の平等を担保するシステムが壊れる。『五等分の花嫁』とは五つ子教という共産主義が資本主義に負ける物語なのだ。五つ子は未来へ向け『皆で五等分』思想の緩やかな放棄へと向かう。

 

この揺らぎは主に3つの事から加速していく。

 

(ⅰ) 風太郎が提示する現実

(ⅱ) 個人差の発生

(ⅲ) 出し抜く必要の切迫

 

個体差が成長により崩れ始め、風太郎というモラトリアム終焉の文脈が挿入され、風太郎の彼女になるために他の姉妹を出し抜く必要が更なる個体差を生じるキッカケになっていく。成長、現実挿入、競争原理の3点により、姉妹5人による共産主義は崩れ去っていく。個性の獲得が共産主義を打ち砕いてしまうのは非常に示唆的だ。

 

 

 

③完備性ゆえの難しさ

 

(1)不可弁別性

 

五等分の花嫁は、『入れ替わり』によって物語が動く仕組みになっている。事あるごとに挿入される『五つ子ゲーム』に代表されるように、五つ子は見分けがつかず装飾品による差別化でしか区別が出来ない存在。

 

三玖が風太郎を異性として意識するのはクラスメートの告白の断りのために一花と入れ替わり、流れで風太郎とキャンプファイヤーで踊る約束をしてしまった事に対して一花への嫉妬に近しい感情に気づいたから。一花が風太郎への好意に気づくのも風太郎とダンスを踊る展開の到来によるもの。

 

五月も一花と入れ替わり風太郎を試し、母親の逝去のショックから父性への不信を抱いていた中で風太郎を信頼するキッカケとなる。五月は風太郎への好意を抱く人間ではなく母の欠落というテーマを担うが、そこでも入れ替わりが重要になる。

 

零奈は四葉の幼少期の姿であるが、風太郎に会い決別を告げる事になる。これも入れ替わりが駆使され重要なシークエンスとなる。

 

このように五つ子の個体差の少なさを利用した『入れ替わり』が風太郎と五つ子の物語を展開し加速する。これは漫画であれば説得力はあるが、アニメとなると問題が生じる。『声で入れ替わりがバレてしまう』のだ。

 

 

(2)アニメ化の困難さ

 

本作は完成度が高く完備性も凄まじい、故に次元を漫画からアニメに少し上げただけで支障をきたす。『入れ替わり』不成立問題だ。

 

アニメ一期の五月と一花の入れ替わりも明らかに一花からはCV水瀬いのりの声が識別でき、二期の四葉と二乃の入れ替わりも四葉から明らかにCV竹達彩奈の声が明確に聞こえる。このノイズが『五等分の花嫁』アニメ化作品が原作を超える事の出来ない重大な欠陥となる。声の違いという明確な差異が作品構造『個体差のなさ故の共産制が風太郎と出会い個性を獲得しモラトリアムに終止符を打つ』を崩す

 

漫画宣伝動画時の佐倉綾音による五つ子全員のCV担当がベストだが、人気作のアニメ化という集金性の高い企画にて声優ユニット的スキームとして5人のメインキャスト形成が要請され仕方ないのだが個人的には残念だ。

 

アニメは、ご都合主義に左右されるが作画で押して行けるほどの出力はなく、筋の力で魅せる作品なだけに1期の残念な作画はまだしも2期の不自然な改変や五つ子キャストの一元化の拒否で原作の希薄化映像となってしまう。

 

現代アニメのトレンドでもある圧倒的作画力に依拠しない本作は内容で勝負しなければならず完備性を如何に傷つけず映像化するか、が問われ、現代職業アニメ制作の現場においては厳しい課題で、こういった事情からも作画至上主義的なアニメが作られ続けるのだろう。

 

 

 

④互換性に見る声優界

 

(1)声優特需

 

2020年くらいから声優の地上波テレビ出演が激増した。カラーバス効果かもしれないが、ゴールデンタイムの番組にも声優が出演し、コロナ禍において鬼滅の大ヒットが映画界を救済したように、YouTubeバブルの弊害で壊滅的な低迷の様相を呈す地上波テレビの救済をアニメ声優に賭けているのだろう。声優側にとっても地上波テレビへの露出は地上波ドラマへ『俳優』として出演出来る好機。声優の地上波タレント化はWINWINな取引なのだろう。

 

特に『声優と夜あそび』を始めとする声優番組やアニメに力を入れるネット放送局アベマ放送と提携するテレビ朝日は積極的に声優をタレントとして起用し、他放送局にも波及している。ただ地上波放送が低迷している理由が放送内における声優への扱いから垣間見えたのも事実だ。

 

何故地上波は死んだのか、それは掘り下げがないから。番組に割ける金銭と人員が圧倒的に不足してしまった事、また作りこみの浅いスキームでも輝ける人材が欠落してしまったからだ。その結果、YouTuberが出てきたら『儲かってますか?』しか聞かないし女性アイドルが出てきたら『グループ仲悪いでしょ?』グラドルが出てきたら『誰に口説かれたの?』もはやAIでも代替できる。

 

このスタンスが声優にも向く。TVマンにとって声優とは『ビックリ人間』。だから殆どの番組で声優は『様々な音が再現可能な職人』的なアングルでしか扱われず、声優個々人への細やかな分析、声優界の問題点には全く触れない。問題なのは声優の善し悪しが声域という指標の是非だ。

 

(2)五等分の花嫁に見る命題

 

『五等分の花嫁』の五つ子は入れ替わっても判別不能の互換性があり、入れ替わりが物語を動かす故に担当声優に求められるのは他キャスト声マネが出来る事。原作において無理のなかった入れ替わりがアニメで不自然さが拭えず面白さが減る事は前述した。

 

この素養は声の表現域の広さであり、声優のバラエティへのインストールを図る上で声域オバケの立場を要求するバラエティにおいて更に声域至上主義的志向の強まりは誤った価値体系を流布する可能性がある。これは永遠の命題でもあるのだが声の演技にとって大切なのは声色なのか演技力なのか、という議論だ。

 

プロ野球の歴代最高の守護神にも数えられる大魔神こと佐々木投手はフォークとストレートしか投げない投手。しかし誰も彼を捕まえ『ダルビッシュのように多くの変化球を投げられない凡庸な投手』という評価は下さない。変化球が多いか少ないかではなく打者を抑えられるか否か、が重要だからだ。

 

声優も同様。声色も大事だが声に説得力を持たせ違和感を視聴者に与えない事も重要で、あらゆる声を出すビックリ人間になる事が全てではない。声優の凄さを声域の広さと再現にのみフォーカスするのは将来の声優志望者への負の影響が危惧される。

 

 

⑶これからの声優

 

何度目かの声優ブームは声優の競争力の増強、顔出しによるアイドル化というフェーズを経て衰退する地上波放送の救世主として影響力を増す。他方、苛烈な人材飽和から絶対的存在不在の世界となった。互換性を持ち入れ替わりに対応できる五つ子は代わりがいくらでも利く声優界とリンクし声域至上主義の発展と共に、この流れは強まる。

 

アニメはコロナ禍の映画界を救い、地上波放送も救おうとしている。その担い手、声優はアイドルを超え表現者として多様な活躍が求められ、互換性を極限まで向上させたとき、どんな世界が広がるのか。自分は力学体系による政治的な世界になると予想する。

 

モデルのマリエさんが18才頃、島田紳助氏から枕営業に誘われ応じなかった事で番組を降板。誘われた場で島田氏の取り巻きの芸人(出川哲郎氏と明言)は応じるように囃し立てたと告発した。枕営業をするのは個体差がないからだ。マリエが担うロールは画に花を添える事。コメント力も突出したものはなく替えの利かないタレントでなく、実力以外で評価されるのは自然だ。

 

個々人のレベルが高く個体差がないから代わりが簡単に利き、結果としてプロダクションの力学や枕営業のような実力以外の要素が強くキャリアに影響してしまう。大金の集まるところに才能は集まる。TV局に集まる資本は莫大で、地上波低迷は芸能界の低迷ではない。才能が既存メディアから離脱しているだけだ。

 

構成員の能力が拮抗し互換性が向上すると結果としてモラルを無視した集金モデルへとコモデティティが進んでしまう、という映画界、TV界でも見られた現象が声優界でも見られるようになっていくはずだ。だからこそ、こういった負の前例から学びながら、道を踏み外さないでもらいたいと願うばかりだ。

 

⑤最後に

 

今回は『五等分の花嫁』を叩き台に

 

平等が個性と現実により壊れてしまう問題

完備性のある原作のアニメ化の困難さ

互換性の向上による声優界への危惧

 

を述べてきた。一万字を超える事も少なくない自分のブログ記事にしては5500字程度で幾何か読みやすかったと思う。アニメや漫画の評論は執筆していて、とても楽しいので、またリクエストを頂けたら。

 

次回記事は7月頃にプロスピAというスマホゲームを叩き台にした現代野球を語る記事を予定、ただ僕が応援するペップシティが大耳を制覇すれば『ペップシティとは何なのか』を急遽執筆するのも悪くないな、と思っており、内容は未定。

 

2010年代後半から2020年代前半にかけ作画で押す作品が覇権作品となっている。海外資本による3Dアニメの技術進化も相まって作画時代は続くだろう。そんな時代の中で筋で勝負できる『五等分の花嫁』のような作品が登場する事を筆者は切に願っている。真の名作とは売り上げではなく見た後に語りたくなる内容のある作品だと信じているので。

 

まごころをこめて『執着の円環』に終結を。(シンエヴァ評論)

『僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。作品自体を娯楽の域に戻したかった。』

 

上は庵野秀明朝日新聞be上の発言。新劇場版エヴァンゲリヲン最終作は、エヴァの明朗活劇化、庵野主宰スタジオカラーの集金、そしてアニヲタへの最後通牒、それらを背負い、前作Qから9年もの時を経て公開された。

 

 

①筋の分析

 

シンエヴァは4章からなり、

1. パリ決戦

2. 第3村での再建

3. ヤマト作戦

4. 父子決戦

 

155分の長編アニメ映画の本作、東映東宝共同配給という護送船団方式で臨んだのに、上映時間2時間程度の上映本数劇的増加可能スキームを捨て去ったのだから、集金よりも描きたいものがある、と構造から伝わる。

 

小さく分けると4章だが、大きく分けると2編。前半(1,2章)が失声症を患ったシンジ再生の物語、後半(3,4章)は決着の物語

 

死の街と化したパリ解放のためのヴィレとネルフの戦闘から始まり、農村でのチルドレン達の再生と生命の物語が描かれた後にヤマト作戦と呼称される南極でのアディショナルインパクトのトリガー破壊を目的とする戦い、その後にシンジとゲンドウの父子決戦によって決着を迎える構造が採用。

 

4章の各分析を以下に。

 

⑴パリ決戦

 

ユーロネルフ第1号封印柱の復旧作業により旧ユーロネルフ保管のエヴァ修理部品回収を目的としたパリ解放作戦から始まる怒涛の展開。庵野作品には良く見られる早期の事件発生、という有名な文法で(シンゴジ、Qを参照)、Qと地続きから始める事で連続性を帯び、Qありきで進むという強い表明と取れる。

 

なぜパリ? 旧劇TV版放送前最後に手掛けた作品ふしぎの海のナディア』、そのクライマックスの舞台がパリエヴァに終止符を打つため始点としてナディアのクライマックスの舞台を採用するのは必然でエヴァ庵野私小説と言われる所以だ。単純にパリのエッフェル塔を用いた攻撃がしたかっただけ、という可能性もあるが笑(シンゴジの在来線爆破のような)。

 

戦艦の上に光る糸は特撮にて戦艦のミニチュアを糸で吊るしているのが見えてしまうというかつての実情を表現したもので、本作が虚構である事を強調し、重要なメッセージを放つ。

 

 

⑵第3村での再建

 

ニアサードインパクト(劇中でニアサーと呼称)の影響で避難を余儀なくされた人々が形成する第3村(3.11による避難民の居住区のメタファー)にて、かつてのシンジの同級生、ケンスケ、トウジ、委員長ヒカリ、との邂逅が描かれる。

 

これまで庵野が受け入れてこなかった宮崎駿的な土着自然描写も採用され、今まで庵野は特にエヴァにおいて自然よりも都市や無機物の描写が多かったので驚いた。

 

第3村の人々はQにおけるニアサーの絶対的被疑者としてのシンジへの痛罵ではなく、『良く頑張った、ゆっくり休め』という優しい言葉をかけ、無垢な生命の営みの中で、アヤナミレイ(破の綾波とは別人)は知恵をシンジは勇気を(オズの魔法使いにも重なる寓話的フロー)、各人求めたものを得てアヤナミは消えシンジは戦いへ向かう。

 

上映時間の大幅拡張は、これのせい笑。Qの衝撃からシンジが復活するまでを丁寧に描き明朗活劇の特異点Qを肯定する宣言であり、明朗活劇としての新劇は副次的イシューで本筋は別、なのかも。

 

ケンスケはアスカからケンケンと呼ばれ同棲匂わせがあったり、トウジとヒカリが婚姻関係にありツバメという子供も登場し、シンジが眠っていた14年間の年月の重みを感じると同時にアスカとシンジのカップリングといった2次創作的なヲタ趣味に対する意見めいたものを感じさせる

 

表現技法として実写役者の動きをトレースし落とし込むキャプチャー式が採用され自然描写は手書きの宮崎風のタッチで営みは有機的な動き、しかしゲンドウたちの無機的な思想は徹底的にCGや3D技術が使われ、有機生命体と無機的価値体系の激突という二項対立が表現される

 

 

⑶ヤマト作戦

 

インパクトのトリガー、13号機破壊のためミサト率いるヴィレは南極のネルフ本部を急襲、アスカが左目の封印を解きATフィールド中和を図るも、想定し計画に織り込んでいた冬月により13号機は覚醒しブンダーも乗っ取られ敗走する、というQでも披露された、頑張れば頑張るほど事態が悪化するカタルシスレス

 

ヴィレとネルフの激闘

悲しみに暮れるシンジ

友の助力で希望を抱く

奮闘虚しく残酷な結末

 

シンは途中まで面白いほどQの再生産。しかし物語はQの絶望的帰結から変容する。

 

人間を超越したゲンドウがヴンダー上でミサト/リツコの前に出現しマイナス宇宙へ13号機に乗り込んで初号機と共に沈み、シンジは初号機に乗り込む決意を固め、船員の制止に合うも船長ミサトの『私が責任を取る』の一言を受け戦いへ挑む。Qになかった希望を得るためゴルゴダオブジェクトにて父子対決へ進む。

 

海、大地、魂の浄化が人類補完計画で立案者はミサトの父親である事も明かされ、亡き妻ユイを取り戻すためゲンドウは虚構と現実の合一を目指す新たなインパクトを起こす(『NARUTO』のうちはマダラによる月の眼計画的)。

 

マイナス宇宙はウルトラシリーズからの引用で、光速を超えた先の世界と定義され、そこに存在するのがゴルゴダ星。ゴルゴダはキリストが磔に処されたゴルゴダの丘からの引用で、贖罪をキリストたるシンジが行うという構図に合わせゲンドウと向き合いメシア(救世主)となるシンジの未来を暗示する(13号機の13という数字も意味深)。

 

 

⑷父子決戦

 

マリの改8号機に搭乗しマイナス宇宙を目指すシンジ。破で取り残された髪が異常に伸びきった綾波レイの魂を初号機に乗り込んだ時に見つけ、シンジにエヴァに乗らずに済む未来を作れなかった事を謝罪するも、シンジはエヴァに乗らなくても良くなるようにシンジを拒むようシンクロ率を0としていた綾波の防衛に感謝を伝え、もう一度エヴァで戦う事を決める。

 

ゴルゴダオブジェクトでは人間の認識が追い付かず情報は既存の記憶として認識され、過去風景の中でシンジの乗る初号機とゲンドウの乗る13号機の対決が繰り広げられる。旧ネルフ本部、第3東京市、ミサトと同居していたアパートの一室を背景に槍を交える(槍は男性器のメタファーとも捉えられ槍の激突は男同士の決闘に相応しい)。

 

戦闘背景がスタジオ撮影をしているかの様な演出がなされていて明確にエヴァンゲリヲンは虚構の物語である事が強調されるゴルゴダオブジェクトはエヴァを製作し続けていた『裏方』の世界なのだろう。

 

肉弾戦闘で決着が付かずカシウス/ロンギヌスの槍で虚構と現実の統合を目指すアディショナルインパクトが発生し冬月はLCL化。ミサトはヴンダーの脊髄からガイウスの槍を創生し命を捨てシンジに槍を授ける。ユイの魂との再会のため全人類を一つの生命体へ集約する補完計画発動の必要はなかった、ユイの魂はシンジの中にあったのだから。

 

ゲンドウは敗北を認め、電車の中(精神世界)でシンジに懺悔し電車を降り(計画から降り)、シンジは自身を犠牲にエヴァのない新しい世界線の建築を試み(火の鳥路線で世界再構築という予想は少しは当たっていた)エヴァに執着する世界と自身に執着するアダムの魂である渚カヲルリリスの魂である綾波レイを解放する。

 

愛を求めたアスカに過去形の好意を告げ、シンジの救済に執着したカヲルには感謝を述べ、シンジがエヴァに乗らなくても良い世界を求めたレイにはエヴァのない世界を宣言した。シンジは旧チルドレンとの救済同窓会の後、贖罪のため自身(初号機)を犠牲にし13号機を貫く。その時に碇ユイの魂がシンジを初号機から追い出し、ユイとゲンドウの両親の献身によって全エヴァは消失し、新劇場版の世界線世界線)は消失する。

 

そしてγ世界線では駅のホーム(電車=乗り物に乗る世界=エヴァの既存世界線)でシンジとマリが仲睦まじく話し合い、向かい側のホームでカヲルとレイが談笑し、離れた場所にアスカ。宇部新川駅(庵野秀明の実家の最寄り駅)でマリに手を引かれながらDSSチョーカーを外したシンジは駅の外へと飛び出していく。キャラクターはアニメーションだが背景は実写という虚構と現実の入り混じる世界線を駆けだして終劇する

 

シンジの声は緒方恵美でなく、神木隆之介で、エヴァフォロワー新海誠の『君の名は。』オマージュ。宮崎フォローを受け入れた庵野が自身のフォロワー新海への愛情溢れる描写を与えている。

 

『だーれだ』そうマリに囁かれ、『胸の大きい、いい女』シンジが、戸惑いを見せず冷静に返す。彼の思春期はβ世界線に置いてきたのだ。

 

エンドロールと共に宇多田ヒカル『ONE LAST KISS』が流れる。歌詞はゲンドウのユイへの思いにもダブり、執着というゲンドウだけでなく本記事冒頭で述べたアニヲタのエヴァへの執着にも重なるテーマが歌われている。そして序破のテーマ曲Beautiful worldが流れる、タイトルに付された反復記号に従うように。個人的には残酷な天使のテーゼを流して欲しかったが、そういうエヴァヲタ向けの過剰サービスの放棄も、また本作のイシューを考えると納得できる

 

 

 

②シンの主張

 

(1)ユダ(マリ)とキリスト(シンジ)

 

新劇は裏主人公がいて

 

序  綾波レイ

破  式波アスカ

Q   渚カヲル

シン 真希波マリ

 

この流れは予想していたので父子決戦においてゲンドウの過去パートの中でユイ、ゲンドウ、冬月、マリの4人衆の絡みが中心になる事は想定はしていた。

 

しかし想定を大きく超え、マリは大きな役割を担い、劇中で冬月が呟くイスカリオテのマリア』、つまりイスカリオテのユダ、即ち裏切者でもありながらマリア、即ちキリスト(シンジ)の母(護衛者)である役割を担う。

 

ゲンドウグループ4名の計画、補完計画による人類の昇華プロジェクトを阻害しシンジ(キリスト)をゴルゴダ(の丘)へと誘うユダとしての立ち回りに加えマリアとしてシンジを守護しラストシーンでは彼を現実世界へ連れ出していく。

 

レイ、アスカ、カヲルとシンジのカップリングを妄想し楽しんでいたファンをあざ笑うかのような通称マリエンドの本作、小さくない嘆きがこだましているが、旧劇のチルドレンではなく新世紀(新世代)のマリとの帰結としたのは旧劇で放り投げたものに庵野自身の手で『落とし前を付ける』意味なのだろう

 

キリストとしてのシンジは父の懺悔を受け、ユイへの執着を槍で穿ち父を救済し世界を救い、世界/セカイの救世主となる実存主義の問い『人は何故生まれるか?』という問いに関してイエスのようなユニバーサルなメシアではなく、誰かの救世主になる事にある、という思想が反映された事は自分の思想と小さくないシンクロを感じた。原罪と贖罪を巡る実存主義的疑問への解答を与えた、と見て取れる。

 

 

(2)虚構の暴力性への警告

 

シンエヴァ最大の主張と言えるのが本記事最初に付した『アニヲタが依存する場所』としてのエヴァを閉じる事。90年代の殺伐とした空気を象徴した旧エヴァ同様に新劇も虚構が揺れ科学技術の発展に伴い現実との境目が曖昧な現代を象徴している。

 

庵野虚構の危険性を訴える、庵野自身もQの製作で再起不能にまで落ち込んだ。アニメでの出来事に一喜一憂し没入していくのはアニヲタの習性だが、その危険性と虚構との適切な距離感を設ける事の重要性を示しディスタンスを要請する。

 

父子決戦にてウルトラシリーズの撮影に使われた東京美術センターを想起させコンテを剝き出しで使ったり、エヴァは虚構に過ぎないと強調。現実から逃げ制御可能な美しい無機的世界観に惑溺する危険性への警告と人生を狂わせてしまうほどの暴力性への自戒を込めた反省をしていた。庵野自身も設定考察厨に警句を投げ、矛盾なく説明するのは困難で、わざと設定を非体系として完成させていないと語っている。

 

エヴァを熱心に応援してくれることはありがたいが、現実から目を背け無機質な画面を見続け人生を無駄にしてほしくない、自分もオタクだからこそ理解はできるけど、皆も僕のように(キリの良いところ=最寄り駅)で(乗り物=エヴァ)を降りて現実世界で生きて欲しい、と語りエヴァ卒業を我々に突き付けた

 

『色々な人の人生を変えてしまった事を申し訳なく思う、(アニメ作家は)そんな誇れるものではない庵野の言葉が頭を巡る。

 

 

(3)TIME UP

 

旧劇において禅問答のような様々なコンフリクトを悩み抜きダイレクトで前衛的な心理描写と抽象的記譜による独自解釈理論の乱立に伴い90年代のモニュメントとなったエヴァ。その円環の如き堂々巡りの問答に対してシンエヴァは主張する。『距離を取り時間が経過すれば、その問いを考える事の意味が無くなっている』

 

小さい頃に死ぬほど悩んでいた事が時の経過に伴い重要性を消失する経験をした事は少なくない。エヴァに乗って戦うのか/逃げるのか、『逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ』に対する答えは『エヴァの無い世界を作り問題設定を破壊する』であった。

 

世の中には答えのない問いで溢れている。シンエヴァにおいて葛藤や問いを捨て去れない面々は悉く退場していっている。冬月ゼミの面々(ゲンドウ、冬月、ユイ、マリ)の内、生き残ったのはエヴァに乗る意味といった問いに無関心だったマリだけ。

 

エヴァが提示する様々な問いに対する答えはなく、それは円環故の永遠の未解決問題としてのエヴァと解答付属の相性の悪さがある。しかし落とし前を付けなくてはならない、距離を取り時間をかけ、問いの価値が減退するまで待つしかない。14年というシンジの冬眠期間にアスカはケンスケと懇意になり『付き合い』を覚えシンジへの執着から解放され、クラスメートの面々はエヴァに乗る/乗らないといった問いを考える余裕もないほどに忙しない日常と向き合う。溺れているときに悩んだりなどしない、人間はそんなものだ。

 

エヴァという虚構世界への執着を捨てる事が出来る人間は生き残り、そうでない人間は死ぬ、それがシンエヴァの提示した冷めた諦念的な帰結であった。父への思いを背負い散ったミサト、ユイへの執着を解決は出来たものの捨てなかったゲンドウ、補完計画に拘った冬月、彼らはエヴァを捨てる事が出来なかった。エヴァを捨てる事が出来る人間だけでγ世界線は作られた。

 

シンエヴァエヴァを終わらせたのではない、エヴァについて考える時間が終了したという庵野エヴァ問題の放棄に等しい宣言でしかないエヴァと向き合う意味が庵野の中で消失したのだ。

 

終わらない事が正解の物語を終わらせる問題に対し問題の意義自体を減退させる。作劇はポジティブなものであるが採用された構造自体は極めて後ろ向きなものと言える。

 

『さようなら、全てのエヴァンゲリオン

 

それは全ての考察、全ての仮説、そして庵野自身の中で生まれた無数のエヴァの樹形図の如き帰結へ向けた経路の放棄だったのではないだろうか?

 

 

③新劇とは何だったのか?

 

 

(1)旧劇VS新劇

 

そもそも新劇は旧劇を発端とするアニヲタの虚構世界への歪んだ執着を破壊し、未遂に終わった閉じた物語を明朗活劇路線の下にリビルドするために製作された。今作はQの悲劇を否定せずQと同手筋で物語を動かし帰結を与えるQ改訂版と言える。

 

明朗活劇としての完備性は捨て執着除去に徹しゲンドウのユイへの執着、アニヲタの虚構への執着、庵野自身のエヴァへの執着を終わらせることに注力した。故にQから見事に着地させ複雑な記法乱発や行間のある筋を採用しながら『卒業』というメッセージのもとトータルで見れば破滅的Qの続編として素晴らしい着地をした。

 

ただQを上書きした構成のシンで同じことを2度も繰り返す必要があったのか、このロスは小さくなく4部作の評価を下げ、着地はうまかったとはいえ4部作としての完成度は高くない。Qを無きものとしてQ'として3部作構成にした方が良かったと思う、まぁシンが事実上のQ'の役割を成すので事実上の3部作とも言えなくもないのだが。

 

そして旧劇と比較すると着地の上手さと幕引きの美しさは向上した一方でQの失敗が響き明朗活劇化には失敗したためエヴァに求めるものが何かによって変わり幕引きの上手さを求めるなら成功、明朗路線なら失敗、説教臭い正論なんて聞きたくないという人からは毛嫌いされる。

 

○旧劇が提唱した現実的な価値体系である人間の相互理解の困難さから来る絶望

○新劇が提唱する理想的な価値体系である人間の相互理解の可能性から来る希望

 

この対比が

 

〇絶望の槍を持ち戦うゲンドウ搭乗の13号機

〇希望の槍を持ち戦うシンジ 搭乗の初号機

 

この両者の戦いにて13号機に勝てないシークエンスは旧劇以上の主張はない、という旧劇との思想対決に対しての白旗宣言と取れる。庵野はあくまでも旧劇の主張の強調と明朗活劇の両立を目指した、旧劇を超えるカウンターの思想を提言出来なかったことへ不満を持つ観客は少なくないだろう。

 

エヴァとは終わらない円環の物語で、終結を与えるのは本来は不適切で、リアルに殉じれば絶望的なシークエンスを与えるしかない。そんな中で落とし前を付けるのは極めて難しく、そういう意味でベスト無き世界でベターを選択する事に注力したのだろう。

 

スターウォーズがリビルドされても無茶苦茶デカいデススターを破壊するスキームから逃れられなかったように、エヴァインパクトを止めるために槍を穿つというスキームしかないという、ある種の限界も示していた。

 

 

 

(2)作画時代におけるシンエヴァ

 

現アニメ界は作画時代で、新海誠の『君の名は。』の大ヒットと鬼滅の刃の歴史的ヒットで、この流れは決定的なものとなり作画に金と技術力を注ぎ込むのが主流だ。色々な意味で話題になった『えんとつ町のプペル』も吉本興業という巨大資本とスタジオ4℃の技術力の融合によるヒットで、20年代アニメのトレンドは資本力と技術力の統合がメインストリームと考えられる中で庵野秀明細田守宮崎駿といった作家たちが、どのような作品を打つか、は今後のアニメ界を左右する。

 

エヴァQやシンゴジラでもモーションキャプチャーを用いた映像やプレヴィズによる規定を使い、出力の高い作画力を披露し、東宝東映共同配給の資本力と『上手い人しかいない』スタジオカラーの統合による現行トレンドをフォローした出来となっている。シンゴジラにおいては実写作品においてアニメ的な手法を持ち込んだが、今回は逆に実写作品的な手法がアニメに導入され、破の頃から構想しシンゴジラで本格実装した2次元と3次元の融合がシンでも盛り込まれ、虚構と現実が入り乱れた現代情勢に符号する。

 

特撮映像の良さと実写映画の良さをアニメ映画に導入しようという試みは斬新で作画時代のトレンドに応えながら独自路線となるアングルや芝居設定は、これからの庵野作品でも追求されていくだろうし、シンエヴァが他の作家に対して、この部分で影響を与えるかもしれない。また新海誠フォローから連なる過剰に美化された絵面に関して明確に否定的な立場を取り、美しさを『盛った』様相は呈していない。美しすぎる無機的世界観の暴力性への警鐘を込めたのだろう。

 

 

 

(3)これからの庵野秀明

 

新劇場版は紆余曲折を経て完結したが、その過程で庵野はリビルドシリーズという脱構築作家として最適任の仕事を見つける、それがシンゴジラ。圧巻の出来であった事は周知の事実。次に手掛けるのはシンウルトラマンで、このシンリビルドをどこまで作り上げるのか分からないが、脱構築技法をこれからも駆使し映像作品を作りながらアニメと実写の垣根を超えた貢献を果たしていくのだろう。

 

シンエヴァ庵野秀明の最後のアニメ映画になる可能性は低くなく、今年で61才という年齢と作品にかける年数(3,4年ほど)を考え、残りの作家生活期間中に生み出すことのできる作品数は片手で数えるほどしかない可能性が高く、リビルドで確度の高い作品選びが求められてくるだろう(ゴジラウルトラマンと来ているので次はヤマトか?)。

 

ここで2021年の初夏に公開予定のシンウルトラマンへの自分の概観を。

 

特報映像とポスター画像が公開されカットと画が庵野らしく、ウルトラマンのデザインとして成田享の初期デザが採用されカラータイマーがなく、着ぐるみのファスナー隠しのための背びれもない。怪獣としてネロンガガボラが使われているのはエネルギー問題への提起を感じさせ、ウルトラマンも怪獣も一個体で進化していく可能性もある。

 

機動隊の出現を見るに、怪獣だけでなく異星人の登場も期待され、作中ではレヴィストロースの『野生の思考』(未開人の行動原理には合理主義的な指導原理があるのではないかとする構造主義的書籍)が登場し、真の敵はダダ、と予想している。

 

そもそもウルトラマンは襲来者の駆除を外部に委任するしかない防衛体制という日米安保の皮肉にもなっていて、日米問題の政治的カリカチュアとも出来るし、異種生命体との共存問題を語る事も出来る

 

個人的な予想としてシンゴジラと7割方同じことをすると思われ、それはQとシンが構造的にそっくりなエヴァと同じ。襲来に伴う政治的シュミレーションの構造と電気エネルギーを捕食するネロンガ、ウランを捕食し放射線を放つガボラは3.11メタファーとしての暴走する福島原発シンゴジラと全く同様の手筋を採用できる

 

重要なのはシンがQと同手筋から決着という付加要素があったようにシンウルトラマンにも付加要素がシンゴジラから足され、ダダとおぼしき人間サイズの異星人との対決になろうと思われる。またセブンのような政治的要素の強い物語を挿入し日米問題への提起へと加速する可能性もある。

 

庵野は何を作ってもエヴァにしかならないと言われた。それは、恐らく彼の中に良い意味でも悪い意味でも『オリジナル』がないからだ。おびただしいほどの引用で成立する氏のデザインを考えると、シンシリーズは全てシンゴジラと酷似するはずだ。逆に、そこから、どう差をつけるか、が注目ポイントになるだろう。

 

まとめるとシンウルトラマンシンゴジラと大方同じだが最終章だけが異なるはずで、そこがどうなるか。シンエヴァのように成功するか個人的に楽しみだ。

 

 

 

④最後に

 

エヴァが終わった、終わってしまった。エヴァを卒業したという達成感そして無事に完結を迎えたことへの安心、という様々な感情が渦巻くがエヴァロスのようなものは全くない。自分自身が大学卒業という時期にあった事も含めてタイムリーに『卒業』を強く感じ、これだけのエンタメ作品を見ることが出来た事に喜びを禁じ得ない

 

勿論、本作に不満を感じる方もおられると思う。それも少なくなく。

 

シンエヴァに対する評価の賛否は、エヴァに対する『距離』で決まり、コロナ禍の不思議な一致に運命を感じてしまうのだが、自分はエヴァに対する視線としては脱構築手法への興味が強く、ユニバーサルレスな現代における脱構築手法的思考を持つ人間として庵野秀明に興味を持ったまで。故にシンジが誰とくっつこうが庵野私小説的側面が強くなろうがどうでも良いし、特撮や日本映画や既存アニメの要素を抽出し並べ挙げる映像芸術として成立していれば何の文句もない。

 

エヴァQの公開年にエヴァを知りハマリ期待して劇場に足を運んだのに破滅的カタルシスレスな作品を見せられ、何故事故は起きたのか、という疑問から更に強く庵野秀明に興味を持った人間としてリアルタイムで観たエヴァ作品がエヴァQのみ、という悲劇を回避してくれてありがたさしかない笑エヴァをオタクの依存対象から娯楽作品へと引き戻す当初の目標が達成されたかは分からないが主張は伝わった。虚構に適切な距離感を取る事、僕自身も肝に銘じて生きていこうと思う。

 

抽象的な記譜の羅列により過熱し議論したくなるエヴァであるが庵野本人が言うように過度な考察に意味はない。エヴァ庵野私小説ゆえに人生の一種のメタファーで、絶対的な正解など存在しない、君が選んだ答えを正解に導く物語こそが君の人生だ、とシンエヴァという卒業式において庵野校長からの贈る言葉だったように思える。

 

ラストシーンの宇部新川駅でシンジとマリが降りていくシーンは『じゃあね、僕、この辺で降りるね、』と言いながら庵野監督が最寄り駅(エヴァという計画)から降りていき終わらない円環に終結を与えたように見え思わず泣きそうになった。庵野秀明という稀代の脱構築作家のエヴァ卒を見る事が出来て本当に良かった。お疲れさまでした。

 

 

 

 

終結に、ありがとう

 

執着に、さようなら

 

そして、全ての卒業生(チルドレン)に

 

おめでとう

 

 

終劇

2020年の阪神タイガース

 

 

⓪これまでの矢野阪神

 

降→続

 

金本知憲超変革路線が18年シーズンの最下位低迷による一部ファンの負の民意に応ずる形で電鉄のトップダウン『金本降ろし』を受け終焉し『続金本路線』を掲げ再起動した19年矢野阪神

 

木浪、近本といった若手を1.2番で使う、金本政権1年目の1番高山2番横田を彷彿とさせるオーダーを送り込み『続』路線は静かに始まりを告げた。

 

 FAで安定感抜群の西勇輝(本当に来てくれてありがとう)を獲得、また中日で防御率2.99で13勝を挙げた左腕助っ人ガルシアを獲得、更に選球眼がやたら良いマルテ、パワーカーブを投げるジョンソン(超優良助っ人)をチームに加えた。

 

シーズンが始まると前年のお通夜の空気を変えるべく矢野監督自ら感情を全面に押し出しチームを鼓舞、大山を4番に固定し続け、生え抜き4番候補の我慢の育成を実施(それが翌年大輪の花を咲かせるのだから育成はやっぱり我慢が大事)。 

 

投手陣はエースの風格さえ漂わせる西勇輝、下手投げ変速右腕の青柳、直球の威力は今永に次ぐレベルと小久保氏に評された若手左腕高橋遥人が3本柱を形成、そして何よりも超強力だったのはリリーフ陣、成績を眺めると

 

守屋 57試合登板 防御率3.00   

能見 51試合登板 防御率4.30

島本 63試合登板 防御率1.67 

岩崎 48試合登板 防御率1.01

PJ     58試合登板 防御率1.38 

ドリス 56試合登板 防御率2.11

藤川 56試合登板 防御率1.77

 

勝ちパターンのドリス、PJ、藤川の3名の安定感は勿論。凄いのはビハインド時に登板する投手の質、能見こそ防御率4点台だが、島本、岩崎といったクラスの選手を投入できる人的資本の充実は救援防御率2.70という強力なストロングポイントとなった。

 

しかし明らかに出力の高い直球への弱さを見せ始めていた鳥谷を勝負代打として送り込んでは凡退の連続で打率.207という低迷に一部ファンの罵声も響く中で退団が発表され功労者に不相応な別れを迎えた。(この反省から同じような出力負けを見せていた福留は容赦なく20年オフに切り捨てた。)

 

 

出力が向上し続ける時代において高めの速球を打ち返すことがベテラン野手には難しくなってきており生え抜きレジェンド野手の『棺桶の入れ方』には慎重な扱いが要求されてしまう事を感じる好例かもしれない。

 

鉄壁リリーフ陣を武器として前年覇者広島カープをギリギリで追抜き奇跡のAクラス3位に終わるも、貧打とエラーの多さからゴロPが少なくない阪神投手陣にとっては頭の痛い一年で、そんな野手陣でも超強力なリリーフ陣の存在によってビハインドでも傷口が広がらず僅差へと持ち込む事が出来、最下位からAクラスへ登り詰めた。

 

近本がセリーグ新人安打記録159安打を記録し赤星以来の盗塁王を獲得、梅野が正捕手の座を確実のものとし、球児は守護神として第2の春を迎えた、しかしエースであるメッセンジャーが引退を表明、前述の長らく遊撃を支えた虎のプリンス鳥谷は退団、金本政権でロマン砲として期待されていた横田が脳腫瘍の後遺症から引退を表明するという様々な感情がせわしなく胸に去来した19年シーズンであった。

 

19年オフ、ブルペン陣を支えた鬼スプリットのドリスと魔球パワーカーブのPJが退団し中継ぎ陣の不安定化が心配されるものの、リリーバーだけは湧いて出てくるタイガースの人的資本を翌年に見せつけられる事になる。

 

 

鳴尾浜再建と打撃向上

 

迎えた2年目、ドラフト会議では西、及川、井上といった甲子園で活躍した高卒選手を5名迎え入れた。阪神2軍が1.5軍選手のリハビリ施設の様相を呈していて血の入れ替えのため、必要な措置。

 

貧打に喘いだ19年の反省から外国人選手も1軍登録人数を超過する頭数での競争を促進するため補強敢行。韓国リーグで打点王を獲得したサンズ、MLB通算92本塁打のボーア、独特のアームアングルのガンケル、ジャイロスライダーなる変化球を投げるエドワーズの4人。

 

しかし、この助っ人外国人の獲得に伴い、大山が守るポジションを失う事態を招き、腹案としてセカンド大山オプションを準備しておくべきだった。

 

矢野監督は2020シーズンにおいて、2番近本、ストッパー藤川は固定し、予言の自己実現『もう優勝は決まっている、優勝おめでとう』と周囲に公言。しかし掲げたマニフェストが悉く崩れ去るのだから現実とは恐ろしい。

 

 

コロナ禍

 

今年の流行語候補筆頭のコロナウイルスであるが、全国的な広がりを春に見せ始め新たな生活様式と行動変容が叫ばれ、120試合の実施なくしては参考記録となる規定もあり6月に開幕。コロナ禍への配慮として新外国人の登録人数を一人増やし、セントラルはポストシーズン中止(日本シリーズのみ決行)を決定した。

 

自分自身はコロナ禍での開幕は厳しいと思っていたし、罹患を防ぐのは完璧には難しく、故に『かかったもん負け』のような形式への不安も感じていた。シーズン佳境でのコロナ離脱者を多く出したロッテはソフトバンクに大きく差を開けられてしまったし阪神もコロナ感染に伴う様々な正負両方のドラマを引き起こすことになった。

 

開幕前、復活を期す藤浪晋太郎のコロナ感染が発覚し、当初は、名乗り出た勇気や自身の身体的異常に気づけた事への評価が広がったものの、感染がタニマチ開催の多数の男女による食事会がトリガーと報告され、バッシングも挙がり、聖人君子のような生活を送っていないと『かかったもん負け』になる事を周知した。

 

ただ藤浪にとって皮肉だったのは先発勝利こそするものの2軍に沈んでいた中、1軍中継ぎ選手のコロナ感染による離脱によって中継ぎとして復活することだ。

 

 

①球夏到来

 

 

 

開幕12試合終わって2勝10敗という大惨事が、かつての暗黒時代を感じさせ、虎ファンの心に小さくない不安を与えた6月末、矢野監督の顔も曇り、開幕前の『優勝は決まってるんで』という予言の自己実現が寒々しい黒歴史に変わる予感が我々阪神ファンの胸を締め付けながら始まった新シーズン。問題は明らか、プランの頓挫だ。

 

併殺率も低く盗塁技術の高い2番近本、名球会入りも見えてきた守護神藤川を固定して戦うはずが、近本は大不振に陥り、藤川も調整不足から打ち込まれ(今季限りの引退を決意させるほど)、

 

昨季の最大の武器のビハインド時でも傷口を広げない優秀なリリーバーは守屋が調整不足から離脱、島本はケガが癒えず(オフにトミージョン手術を実行し来季復帰も絶望的)、ルーキーの小川も不安定で、先制されるとビハインド中継ぎが打ち込まれて逆転不能となり沈む、という展開をくりかえした。

 

4番ボーアもバースの再来の再来っぷりを見せつけ、左投手を打てず、極端な引っ張り傾向を逆手にとったシフトでゴロアウトを量産し続け(意外にも空振りは少なかった)、福留がスピードボールに対応出来ず苦しみ、マルテ、ボーア、サンズのMBS砲結成に伴い昨季4番大山をベンチやセンターに起用され、ちぐはぐ感があった。

 

今季を語る上で巨人との開幕3連戦は象徴的であった。12球団イチの捕手の充実を誇るタイガースの捕手ローテは昨季の正捕手梅野への不信と捉えられ批判を呼び、西VS菅野の第1戦でも僅差ながら先行した状態で先発西を6回で降板させ岩崎に継投して被弾。

 

第2戦は岩貞VS田口で7回まで1点差で接戦を演じていたがVSボーアで危機を脱した高木京介とビハインド中継ぎとして大炎上を招いた小川、谷川の差が大きく1イニング8失点で敗着。第3戦では近本の先制HRでリードしたにも関わらず4回に5点を入れられ3タテとなった。この3戦、僅差であったり勝負所で確実に得点する巨人と打った手が空転したり決め切れない阪神の差を最も物語るものと言える。

 

西降板の是非、ボーア起用への否定的意見、大山のベンチ漬けへの批判、梅野への不信と思われる捕手ローテ制への疑問、様々なイシューが在阪メディアを中心に盛り上がり、暗黒時代再来の様相が強まった。

 

  

 

悪夢のような『梅雨』を抜け、夏の訪れを感じさせる日光がタイガースの暗黒を明るく照らし出す。7月に入ると9月初頭時点で脅威の得点圏打率.455の打点稼ぐマンのサンズと生え抜き大砲大山のスタメン入りで変わる。マルテの離脱によって空いたサードのポジションに大山を起用し、これが大山の大きな転機となった。

 

 

不安定な抑えに元ソフトバンク高出力投手スアレスが着任、先発陣も8月初頭には高橋遥人が帰還し先発4試合で失点4点のハイパフォーマンスを披露(通年活躍出来れば球界を代表する左腕)し、藤浪も多少の制球難は感じるものの一時の不振は抜け先発登板5試合目で先発勝利を勝ち取った(藤浪にとって今季は援護が少ないシーズン)。

 

 

シーズン開始当初に背負った借金も、みるみるうちに完済し、気づけばAクラスという成り上がりっぷりを見せた。主な原因は戦力整備にある、と言いたいところだが、実際はリーグ全体的に優勝チームのジャイアンツを含め、調子が上がらなかったところにあり、本調子ではなくても勝ち切る勝負手とメンタリティが巨人独走を生んだ。

 

 

カープは中継ぎ陣が不安定で左のエース格ジョンソンも不振にあえぎ、堂林の再ブレイクとルーキー森下の大ブレイクをかき消してしまった。

 

ヤクルトは最初こそよかったものの投手陣がやはり厳しく後半には枯れ果て最下位へと伝書鳩のように舞い戻ってしまった。

 

横浜も打線こそ強力であるが阪神同様に守護神山崎が大不振に陥り対巨人戦での采配にも冴えがなかった。

 

中日も昨季の打線はどこへやらで2番としてコア形成を期待された平田と守護神に期待された岡田は不振に陥り大野雄大の大エース化と祖父江と福とマルティネスの勝利の方程式の形成でなんとかAクラス入り。

 

巨人も3割打者は皆無で、シーズン開始当初から坂本と丸は不振に陥り、岡本だけが気を吐いていた、中島はコンパクトなフォームで復活したものの、阿部とゲレーロが退団した下位打線を担当する打者としては一発の恐怖がなかった。

 

またシャークダンスでお馴染みのパーラも継続性に問題を抱え、正捕手小林は守屋の死球の影響もあり長期離脱し扇の要を失った。それでも勝負所の指し手の鋭さ、半スタメン級の選手の運用と積極的なトレードで上手く誤魔化しながら独走態勢を確立。しかしリーグでは上手く乗り切れたが、日本シリーズの悲劇の伏線は確かに存在した。

 

 

②総括

 

変革へ。

 

終わってみれば60勝53敗の2位、一歩ずつだが矢野阪神は優勝/日本一へと近づいている。しかし巨人との差は小さくない。VS巨人において8個の借金を背負い、12球団最多の失策数を記録、守備の乱れと巨人との分の悪さ、これは前述したように、勝負所での指し手と人的資本の枯渇(特に打撃面において)にある。

 

しかしながら変わった事もある、長年阪神タイガースにおいて言われ続けてきた右打ちスラッガーの枯渇と俊足外野手の不在と正捕手の不在である。今季において、これらの要請に応手がなされた、大山、近本、梅野、である。

 

打撃タイトル争いを繰り広げた大山は開幕当初のスタメン外に腐る事なくマルテ離脱の好機を活かし7月5日に4番を再び勝ち取った。本塁打28本(リーグ2位)、打点85点(リーグ3位)と大卒4年目にして着実に虎の和製大砲の道を歩んでいて昨年の我慢の起用に応えるような活躍。

 

タイガースのホーム球場甲子園は両翼が広く浜風の影響で左打ちの強打者はなかなかHRが出にくい球場であるので、右の大砲は常に育成/補強対象であり、生え抜きとしては濱中、桜井、江越、中谷、FA補強で新井、と中々埋まらないピースに苦しんできた、そんな要請に応える和製大砲としての期待は大きく、出来るならば守備指標UZRが-4.4の是正も求めたい。

 

 

近本は開幕当初は打率1割台と苦しみ、足の故障も抱えながらの苦しいスタートであったものの、最終的には打率.293、UZRは脅威の19.1(平均的なセンターよりも19点の失点を防いだ)を記録しルーキーイヤーの前年の成績を向上させながら、二年連続の盗塁王という快挙を成し遂げた。

 

 

糸井、サンズという決して守備が上手いとは言えない両翼を補って余りある守備は圧巻で、フリースインガーなため四球による出塁も少なく打てない時は打率が低迷しがちな傾向をあえて変更せず見事に持ち直した。何より阪神の若手は2年生は苦しむ傾向にあった事を考えても赤星の幻影を振り払うタイガースの宝には来季も高い守備能力と盗塁技術でリードオフマンとしての活躍が求められる。

 

 

梅野は昨季から引き続き正捕手として君臨し続けた。タイガースという捕手の層が厚く、守備型の坂本、攻撃型の原口というタイプも異なる事、また過密日程への配慮から捕手ローテが敢行されたが、序盤の低迷を受け梅野固定へとなった、ただケガでの離脱もあった事から矢野の捕手ローテ策が間違っていたとは自分は思わない

 

 

現監督矢野退団以降、ケガがちな狩野は定着せず、メジャー帰りの城島もケガで捕手出場は続かず、『男前』藤井が安定感をもたらした、とはいえ、サスティナブルに扇の要を務める事の出来る捕手として総合型の梅野は昨季に続いて安定をもたらした。来季以降にも期待がかかる。

 

 

大和以降、生え抜きレギュラークラスがいない土壌が金本矢野変革路線によって、大山、近本、梅野という主軸を生み、確実に阪神は変わろうとしている、菅野のメジャー流出により弱体化が予想される巨人を打倒し覇権を奪還する好機は確実に目の前にある。

 

エラーを減らし、貧打を解消し、岡田阪神から続く盤石のリリーフ陣の持久力で耐え抜く強い阪神が来季見られる事に期待したい。野村監督が撒いたタネを星野岡田で花を咲かせたように、金本知憲という大功労者を野村克也と見立てた、真の変革を成し遂げる矢野阪神の栄光が訪れる事を心から願っている。

 

  

 

強くなるために。

 

 

今季のクライマックスである日本シリーズにて繰り広げられたソフトバンクによる巨人の2年連続の4タテを巡る議論が紛糾している昨今だが、阪神の振り返り記事だが、この事に触れておこうと思う。

 

 

まず、晩秋の巨人の調子は最悪。勝率.760で貯金13を形成出来た9月が嘘のように13勝18敗の10月11月の調子の悪さがソフトバンク戦で出た。投手運用に関してイニングを食える先発が減りリリーフ陣を目いっぱい使いすぎてシーズン末には枯れ果てCSも消滅してやる気のない他チームに引っ張られるようにピーキングを誤った感が大きい。

 

昨年の4連敗の雪辱を晴らすつもりが、第1戦で千賀のフォークを見切り直球勝負するも肝心の直球に押され凡退を繰り返し、第2戦で出どころが見えずらくテンポの良い石川に対しウィーラーの一発で精一杯、第3戦はムーアにあわやノーノーという沈黙っぷり、第4戦は打線の入れ替えで出力で押さない和田を捉えて先制するもSBの早期の継投による高出力投手陣に手も足も出ず、2年連続のスイープ。

 

巷ではDH導入によるセパ格差の是正が叫ばれているが、大切なのは勝つことへの徹底がなされているのか?』という点にある。

 

巨人はSBの高出力の直球とスラットスプリット理論を体現するかのような現代的な投手層に苦しんでいたが、昨季、その投手陣の代表格である千賀の直球をスタンドへ放り込み、守護神森のカットボールをはじき返した打者がいた、阿部慎之助である。

 

なぜ、阿部慎之助は今季いなかったのか、それは昨季に引退したから、しかしながら本人もこぼしていたように、この引退は次期監督候補筆頭の養成期間の確保のための引退要請が原辰徳含めとする上層部からあった、からである。ここにこそ巨人とSBの差があると思うのだ。

 

 

巨人の監督は現役期間中は巨人にのみ在籍した生え抜きかつ4番/エース経験者に限るという不文律の数少ない適合者が阿部慎之助であった。

 

しかし昨季SB投手陣への抵抗を見せ下位打線の迫力を増大させていた阿部がスポーツ面とは関係ない理由で引退させられるほどの余裕が今の巨人にあるのだろうか?純血主義という伝統を否定するわけではないがゲレーロ、阿部を欠いた巨人打線は厚みにかけ高出力に押され続けた、目の前の一戦を勝つ事に殉じたと言えるだろうか。

 

 

2010年代初頭の海外サッカー界はFCバルセロナの黄金期の真っただ中であった。ライバルチームにして球界の盟主レアルマドリーは、ある劇薬を注入する、当時なりふり構わず勝利を目指すスタイルでバルサを打ち破ったインテルの指揮官であったモウリーニョの招聘。

 

マドリディズモという一種の美意識に囚われずバルサを倒すという一点のために招聘を決断したマドリーは2013年から2018年の間の最強決定戦であるチャンピオンズリーグ5大会のうち4大会で王者となる(モウ在籍時の戴冠は無かったが基盤を作ったのは間違いない)。

 

巨人を含めとしたセントラルリーグ関係者が議論すべきはDH制の有無ではなく、目の前の一戦を勝つために如何に本質的な事を追求し非本質的な事を捨て去る事が出来るか、ではないだろうか?

 

 

SBと普段対峙している楽天は石井GMの下で選手への過度な温情を捨て去った柔軟な戦力の入れ替えで市場をにぎわせ、西武は選手流出を止めるべく主力選手の待遇改善と資本投下を決行した(増田引き留めは小さくない変化)。

 

ぬるくても育成で巡り合わせが良ければ優勝出来るというユートピアパリーグには存在しない、刻一刻と合理的に強靭化の一途をたどるSB帝国が存在しているのだから。

 

 

巨人阿部慎之助の力学的事情による早期引退を痛罵したいわけではない、純血主義も立派な思想であろう、しかしながら、そんな余裕は今の巨人、いやSBと対峙するチームにはないはずなのだ。

 

 

梶谷と井納のFA獲得への否定的な声もあるが、自分は、この補強は正しいと思う。育成が正しく補強が間違っているのではなく、強くなることを放棄して思考を止める事こそが最もいけない事なのだ。

 

パンチのない外野両翼の補強は勿論、中継ぎ陣をフル稼働せずにピーキングを日本シリーズに合わせる事が出来るようにスターターは一枚でも確保すべきだし、この補強への文句は理解出来ない。

 

来季の巨人は外野両翼の打力向上とコア(坂本/丸/岡本)の前後を打つ選手の質を上げる事が求められる、また菅野が抜け先発が食えるイニングが減る事による中継ぎ陣の運用もシビアになってくるだろう、出来る事ならば菅野にはもう一年残留してもらい、戸郷と共にイニングを食ってもらう事が求められる。一塁と左翼の助っ人外国人の質が来季を大きく左右する。

 

 

コロナ禍において、我々は不要不急の事柄の自粛が要請され、今やろうとしている事が本当に必要なのか自問する時間が多かった。

 

その中で硬直化した組織が柔軟性を獲得出来る好機と捉えて新しいアイデアを試行した人間と前例主義で思考停止した人間の差がポストコロナ時代において大きな違いとなって現れるはずだ。

 

本質的な事を追求する野心と非本質的な事を捨て去る勇気、そういったものを大事にしながら合理主義的にSB帝国に追いつき追い越せるような気概を持った野球人を来季多く見る事が叶う事を願いながら記事を結ぶことにする。

大学院入試体験記(2020年度受験)

 

 

⓪進路

 

僕は国立大学の理学部物理学科学士課程4年生(B4)であり卒業要件を満了すれば来年度は修士課程進学、就職のどちらかを選択するのがベターな進路。

 

理系学生の6割7割は修士課程進学(院進)をしますが、院進は2通り存在し、在学大学学士課程から内部修士課程へ進学する内部院進、外部大学修士課程へ進学する外部院進がある。

 

僕は外部院進を志望し、大学院入試を受験合格し、幣学が定める卒業要件を満たせば来年度から外部研究室での2年間の修士課程が始まる。

 

当該記事を書くにあたり外部院進に興味のある方にとって価値のあるものにしたいと思う(今年はコロナ禍の院試で汎用性があるか疑義があるが)。

 

 

 

①動機と軌跡

 

僕は物理学者になることが夢で、物理学の専門的学習が可能な物理学科への進学を決め、進学先としては訪れた事のない地域に住んでみたいという思いがから修士移籍可能も考え現在在学中の中堅国立大学に進学。

 

学部1年では履修している講義担当教官の方の居室に講義についての質問を伺うという名目でお邪魔し、様々なお話を伺った。その中で印象的だったのは旧帝大の人的資本の豊富さについての話。入ってくるヒト、モノの質は違うと、力説され旧帝大系の研究室への興味がわいた。

 

初めて、お話させていただいた先生(現在所属中の研究室主宰)には修士課程まで残留してから博士課程で移籍するのもアリ、との助言も賜ったが、その方も外部院進で名古屋大へ移籍していて、そこで出会った優秀な先生との出会いは自身の学者人生に大きく影響を与えたとおっしゃっていて、ふと本学教員の修士課程における旧帝大出身率の高さを見て、学者になるには、やはり旧帝大級の研究室に移籍するのが得策なのかなぁと思いながら色々な旧帝系の大学の研究室のHPを眺めていた。

 

学部2年、専門科目の講義が増え自然と同期の名前と顔も覚えだし友好を深めた数人を誘い自分が主宰の自主ゼミサークルを発足(今でも続いていて、来年以降も遠隔でなにかしらの活動を定期的に実施予定)。

 

院生の知り合いも増え、9月にはtwitterアカウントも作成し、現実、デジタル両方の世界で物理学徒の方々との人の輪が広がり様々な意見交換をする中で日本の自然科学の研究に従事する人間の現実や課題も知りました。

 

学者になる困難さ、学者になってからも教育や事務作業に忙殺されながら研究を続ける厳しい現状を見て、白い巨塔主人公、財前五郎の『大学教授は未来が約束された仕事』というセリフとはかけ離れた世界が学者になるという選択に疑念を与えた。

 

こうした疑念を受け、学者に自分が向いているのかどうかを見極めるため内部院進、外部院進の両面から経験者や興味のある分野の研究室のOBの方にもアクセスし、物理の学習もしていきながら時が流れた。

 

学部3年、翌年の研究室配属も見据え、1年生の時から何かと相談に乗って下っていた先生の研究室への志望を抱きつつ学習。成績は良い方だったので配属には何も障壁もなく、院進に関しては内部であるならば踏み絵(専願)を踏めば自動的に内部院進出来る成績は残していた。

 

学部4年になろうという時に、外部の研究室を第1志望、本学内部の研究室を第2志望として受験をすることを決意。決意の理由は自分の器を量るため。現在所属する研究室で一番信頼している博士学生の方から『今の研究室だと君の能力を100%発揮するのは困難かもしれない』という助言を受けて、自分が学者に向いているのかを判断するための場所として外部移籍を決意。

 

自分が研究生活に向いていて人生を賭ける覚悟を持てるかどうかを判断すべき場所として現在の内部の環境では難しいと考え、上質な人的資本のある環境で自分の可能性を見定めるために外部院進を志望。

 

決め手はHPが定期的に更新されていてコロナ禍で学部4年の配属を付さない研究室もある中、しっかりと記載され、外部の人間を受け入れる素地がありそうなことや、訪問時に実際に話した時の教員の方の雰囲気、信頼する数人の人間の意見が大きかった。

 

大学院入試は研究室選びであり、親を決める、いわばサカヅキを貰う人間を選ぶ作業、自分は何より良好な人間関係を構築できるかを重要視した。この人の下に付きたいと強く信じられる人間でないと嫌だ、という考えが強かった。

 

 

 

②院試攻略

 

そもそも外部院進は内部院進に比べて不利で、過去問の解答(問題は大抵公開)の製作または入手、試験問題製作教員の問題作成の手癖の把握、合格者からの情報獲得、が難しい。院進生の9割弱が内部生という事からも外部受験の難しさが分かる。

 

外部院進に成功した立場として院試攻略に重要と思うポイントを2つほど列挙する。

 

⑴情報の確保

 

外部の人間にとっては指導教官の人柄や研究室の雰囲気、また過去問解答や口頭試問での適切な振る舞いといった様々な情報が欠落。研究室訪問やHPの閲覧だけでは限界があり、HPがマメに更新されているか(外部からの獲得に積極的かどうかの判断材料)、博士学生がいるか(自身の数年先をイメージしやすく生きた教材が身近にいる)といった部分から推察は出来ても外部からは見えない部分も多い。

 

重要なのはやはり人脈です。過去問を解きあってくれる人、腹を割って聞こえの悪い事も教えてくれる人(聞こえの良い事を言うだけの人間は人脈とは言わない)、僕は両方にtwitterを通して出会えました。

 

こうした交流は大切で、普段関わらない知り合いのFFさんではなく、DMで密に連絡をとって相談に乗ってもらえる方と出会うのはとても重要。院試合格に何が一番寄与したと思う?と聞かれたら、人脈が大きかったと答えます。腹割ってくれる人間を増やすことは大切で外部院進考えるなら重要な要素の一つ。

 

⑵勉強法

 

何と言っても試験なのですから当然ながら試験攻略が重要。ここは何より過去問分析につきます。大学によって出題科目に違いもあり英語試験をTOEICで代替したり、数学試験があったり大学による。

 

間違いないのは物理試験はあるので笑。そのことについて触れておくと課されるのは古典力学、古典電磁気学量子力学統計力学の4分野で。そこに物理数学や相対論が加わる感じ?

 

大学によるが古典力学統計力学は想定される問題のバリエーションが限定されるので得点源にしやすく(古典力学は大抵が解析力学、剛体、天体が多く統計力学も作成可能な問題が少ないため熱力学を出題しパターンを増やす大学もある)

 

典型問題を何度も解くことが重要。英語問題は公開されないことが多く、これも人脈を使って確保、出題問題を聞く、といったことが求められる。

 

使う問題集は正直どれを使用してもそう変わらないと思いますし、自分に合うもの(問題の解説が自分好みかどうか等)を選べばよい。僕は典型問題をノートにまとめ、それを再現できるように何度も何度も手を動かした。

 

これは後悔だが、学部で力学や電磁気学を学んでいるときに院試問題に手を付けるべきだった。物理の理解(分かる事)と処理(解けること)はイコールではないので、早めに着手すべきだった。

 

 

 

③祝合格

 

ありがたい事に受験させていただいた2校両方ともに合格し、来年度から研究室移籍の運びとなります。この合格は過去問の解答の比較に付き合って頂いた方や進路相談に乗っていただいた方々、また内部の情報を提供してくださった方のおかげです。改めて感謝申し上げます。

 

募集定員を上回る合格者を出す大学も少なくない中、自分の合格した大学は定員を8人下回る様相で。1次の筆記試験で落とされた方、2次の面接に進めても希望分野の面接を受ける事を許されなかった方、不合格になった方、与えられた受験番号それぞれに、お名前があり物語があることを考えると自分は本当に恵まれた立場にいる。健康に研究が出来る事、第1志望研究室で研究出来る事に感謝。

 

受験までの主なスケジュールはB3の頃から志望大学候補の過去問で雰囲気をつかみ、色々な人の話を聞いたり調べたりしながらB4が始まる前に志望先を決定し、典型問題のまとめ、5年分の過去問解答を整備し、4月から8月の間に典型問題のインプットを繰り返し、本番

 

 

 

④院試を終えて今

 

僕はB2くらいから外部院進を模索し自主ゼミメンバーを含む周囲にも外部への移籍願望を公言していた。同意見同期も10数名いたが物理学科同期で外部受験をしたのは5名(内4名合格)で外部移籍希望者に未受験の理由を聞くと、環境の変更の煩雑さ、コロナ禍というイレギュラーな状況、移籍後の環境への適応の心配を列挙していた。

 

これは多くの大学で実施されているが、同期の中である程度優秀な成績を収め踏み絵(専願届)で忠誠を誓えば書類選考のみで合格してしまうため、黙って専願にして院進出来るチャンスをふいにしてでも研究室移籍するリスクを重く見た学生が多かったのか?

 

当然リスクは慎重に考慮すべきで今後の人生に大きく影響を与えるので移籍、残留どちらかに不等号が向く事案ではない

 

それでも外部受験しようと思う方は最低でもB4の春学期から志望大学の問題情報の入手と典型分野の探索、典型問題のマスターなどに着手すべき。勉強にフライングはない。また同時に志望研究室の情報をHPや人の輪を通じて入手するべし。

 

また今年度の受験にはコロナという文脈は避けて通れず、接触をさけるための口頭試問のみの受験に切り替わって謎に落とされた、という事案も発生していたり通常の試験での合否とは異なった基準が採用されてしまった事への悲喜こもごもあるだろう。

 

2020年の春ごろから中国の武漢を起点として流行したCOVID-19通称コロナウイルスによる感染症狂騒曲により大混乱が生じ、大学でもリモート講義を中心とした非対面形式がデフォとなり生活様式の変化が要請。

 

大学から遠方に実家がある僕は今学期は学校はおろか研究室へも通う必要がなくなったので有意義に院試勉強が出来た。zoomでの輪読ゼミが唯一の履修科目(1年の頃から計画的に卒研だけ4年生で獲れば良いように調整してきた)で通常のゼミよりも早く終わる事も多く、コロナによる負の影響はほぼなく、コロナ禍院試にネガティブな思いは一切ない

 

自分自身はかつてブログでも付した通り遠隔講義の利用による時間割の概念破壊に基づく多様な履修実現を願っていた事もあり好意的に受け止めていたし、硬直した組織が唯一柔軟性を発揮できるのは危機的状況のみなので、今回で得られた知見が未来にとって良いレガシーになる事を望むばかり

 

ただ非対面講義の実施が大学側の『手抜き』と見る風潮から強制対面へと舵を切っていくのはゲンナリで、非常時における決定の先延ばしと様子見のための基本方針提出の遅延を見ていると、この国も変わらないな、と辟易する一方だ。

 

内部院試に関しては感染症対策により事前に問題が配布されレポート提出と軽いzoomでの面談で合否が決まり、結果として受験者全員が合格するという、院試とは、、、といった様相。コロナで損した院試、得した院試の両方があるだろうが研究者が良く言うセリフ『人生も研究も縁と運』なのかもしれない

 

2大学院試本番に関して淡々とやってきたことをこなし特別な感慨はなかった。打てる球を確実に打つことに集中し、面談でも確実に知っている事しか答えないという立場を堅持、詰みまで確実に見えた筋しか打たないという事に徹し素直に努めた。

 

 

 

⑤おわりに

 

典型問題の解法を叩きこみ、打てる球を増やすための再現性向上に時間を費やしながら人の輪を広げて内部情報をゲットし粛々と学習に励むのが地味ながら院試攻略の最大のポイント。試験とは出題頻度の高い手筋の分析と想定される問題の解法の再現力の向上が王手飛車取りで、そこは院試でも変わらない

 

合格発表当日は緊張もしましたが自分の受験番号と研究室割り振りの掲示に自分の名前があった時は本当に嬉しかった。同時に自分の前後数名の番号がなかったのを見て、試験当日の前後に座っていた方の顔を思い出し(前座席の方はボロボロになった演習本を読んでいらっしゃいました)思うところもあり、所属を受け入れていただいた研究室の期待に応えられるよう頑張ろうと決意した。

 

大学へ通いたくても通えない人が世の中にはたくさんいて、学びたくても学べない人も世の中にはたくさんいて、そんな方のために懸命に毎日を生き、知を発信し、人々の暮らしを豊かにするような研究者になる、という夢を叶えるべく努力して参りたい

 

自然科学研究者とは非本質的な事を捨て去る勇気を持ち、本質を追求する姿勢を持ち世の人々の暮らしを豊かにすることに身を尽くす人を指すと自分は考えていて、そういった人間になる器の人間なのかを見極めるべく外部院進先で己と向き合う所存。

 

保険数理や宅建行政書士といった資格取得にも挑戦したい。学部時代は飲み会やクラブ、サークルといったものと無縁の生活で良くも悪くも物理しか記憶にない学部生活だったので笑、幅を広げる意味でも博士行きを辞めた場合の就活のためのリスクヘッジも考えて様々な事に修士では挑戦したい。

 

人は何故生まれてきたのか、被造者が人間を作りたもうた理由とはなんぞや、との実存主義の問いに対しキリストのような万民の救世主にはなれないかもしれないが、誰かのための貢献をするため世の為人の為に生きるため、そのために生まれるのだ、と自分なりの解答を持っているが、今回付した文章が院進を考えておられる学生の一助を担えたら至上の喜びである。

僕が講義をするなら。

今回の記事は大学教育(といってもそんな固い内容ではないですが)について自身の思うところを付す。僕は現在、某国立大学の理系学部3年生で、3年間様々な講義を聴講する中で、『こうしたら良いのに、なんでこうしないんだろう』と思うところが多々あり、自分は将来は物理学者を目指していて、もしかしたらアカデミックポスト(教育機関の講師)に就きながら研究をしていくかもしれない、そんな未来予想図を思う中で、自分が仮に大学などの教育機関で講義を担当するなら、どのように進めていくかを書くとする。

 

 

 

①講義はストリーミング

 

まず講義の進め方、教室に決まった時刻に集まって講義を集団にするといった形式は採用しない基本的に理系の講義は実験を除いては、座学の講義と演習形式の2種類が列挙できる。

 

両方ともに講義室に聴講者を集めて講義を行うということはせず、聴講者のメールアドレス(学内用のメールアドレスを近年では入学時からテンプレで存在するはず)に講義動画を送信し、その内容を学習してもらう形が理想的。

 

演習系講義に関しては、予習用動画、問題、復習用動画の順に送付し、個々人で学習してもらい、問題についての議論を教室でおこなったりするようなスタイルは廃す。

 

上に付した内容のメリットについて述べる。

 

⑴動画送信によるメリット

 

まず動画送信による講義形式なので教室に集まることはないため、講義に遅刻するといった概念が消失する。よく絶起といった言葉を使われる学生さんを見かけますが、動画配信なので教室に行くこともなく、通学に時間のかかる学生さんにとっても通学に要する時間のロスを抑えることが出来る

 

また、動画なので、何度でも見れて、何度でも聞けて、巻き戻したり、倍速で再生する事も可能なので、聞き逃すといったことも少なくなる。

 

ある時ツイッターで某大学の講義中、多くの学生が担当講師の話を聞かず私語をして授業崩壊をおこしている様を撮影した動画が流れてきた。僕は被害者しか、この教室にはいないと感じた

 

 まず講義を聞いてもらえない講師、講義を真面目に聞きたいのに邪魔をされる学生、そして最も重要な被害者こそ、学士が欲しいだけで入学した学生。彼らは迷惑をかけているので当然ながら善い行いはしていない。しかし彼らの存在こそが大学教育にとって重要な存在で、こうした一団の存在とどう向き合うか、が講義進行の最重要課題である。

 

今は、大学全入時代と言われ大卒というのも珍しくはなくなってきたが、日本の就職時における学歴主義は健在で、大学進学も学士取得により就職で有利に立とうとする動機が強く、学習希望と学士希望の間のズレが発生していて、そこに少子化による学生の質の低下が合わさって前述した悲劇を引き起こしている。

 

企業にとっては4年間時間を潰してくれ、大学は学士志望の人間を多く入学させ集金出来ることでWIN-WINの関係を築いてきたが、この関係はこれからも続くと想定され、受け入れる側のスタンスを変更して対応していく必要がある

 

講義を担当する優秀な研究者のメンタルや負担を考えても、集合形式の講義よりは動画配信のほうが講義を邪魔するという要素を排除できる。日本の大学生は世界の大学生に比べて勉強しないと言われて久しく、それは単純に勉強したくない学生を入学試験で通してしまっているだけで何もおかしなことはない。そうした学生さんを、いかに上手く処すかが問われているのが大学教育だ。

 

講義の進め方を超過した話だが、アカデミック理系分野というのは学士4年修士2年博士3年の9年方式で理学博士を修得する流れで、学部3年間で学士修得の単位数の9割は揃い、学部4年では3年間の成績と志望を考慮した上で研究室配属を行うことが一般的。

 

ですが卒業研究といっても既存分野のまとめ書きのようなものに過ぎず、その意義を問う声も多く、理学部数学科だと卒論を書かないというところもあるそうです。

 

学部卒のみで良いような学生さんを研究室配属させることにも疑義が生じ、外部の研究室へ修士で移籍する人も内部の研究室で1年過ごすのは、どうなのか、という疑義も。そこで提案したいのが学士3年修士3年博士3年のトリプルスリー制度

 

学士資格を望む学生は3年で卒業し研究室配属における人員配置も滞りなく実行されることを可能にし、学士4年を廃するメリットは少なくないと考えます(この方法では大学側と企業の目論見が崩れるので、実行されることはないと思いますが)。このような形はいささかドラスティックに過ぎますが、学習を望む人と学士修得を望む人のゾーニングを遂行することこそこれからの大学教育において重要であると考えます。

 

 

また履修制限を教室のキャパでかけなければならないという問題も動画配信では解決され、この動画をYouTubeなどにupすることで多くの方々に見ていただけるので知の発信としても有意。ただ授業料を払っている人/いない人が平等に講義動画を見られるようになるのはアンフェアな気もするので、部分的に留める可能性は考慮しなければならない。

 

YouTubeなら翻訳機能も兼備されているので、今の翻訳機能では文章が不完全な形で訳されてしまって使い物にならないところも散見されますが、いずれ機能の向上により日本語を母国語としない方にも見ていただけるものになる可能性もある。

 

この動画配信スタイルを全講義(といっても体育のようなものは無理だろうが)で採用することが出来れば時間割という概念を破壊することが可能。国立大学ならば時間割として5曜日5時限の25時限しかなく上級生向け講義、もしくは他分野の講義を聴講しようとすると『カブリ』がでてしまって不可能となるケースがある。

 

しかしながら今ドキの大学は多様な価値観の創出のために他分野講義の聴講を促していて、こうした要請に対する不備を、ストリーミング講義によって再整備することが可能であり、好きな時間に好きな講義を動画で学ぶことを可能にする。

 

人口減少と少子化により学生数、教員数もこれから減少していくことが予想される中で、複数大学での講義動画の共有といったスキームも考えられ、一部大学で教員の数の不足への対応として民間の専門家による講義動画ストリーミングの採用といった義の民営化といった手法も提案される

 

⑵議論系スタイルへの疑義

 

近年の講義の中ではグループワークによる生徒の自主性の喚起、いわゆるアクティブラーニング(以下AL)系講義が流行し、これまで、多くの実施報告があがっていて、様々な問題点も報告されています。僕は、こうしたALには否定的な立場をとっていて、議論系講義の実施もすべきでないと思う。

 

僕はAL自体を否定しているわけではなく、ALの成功には、いくつかの条件が要請され、そうした要請を満たし得るのが多くの共同体では困難であるからこそ否定的であるというスタンス。

 

まずALは通常の座学における担当教官による受動的なスタイルではなく、事前に学習内容を提示したり既存の学習知識を用いて、いくつかのグループに分かれて問題の解決へ向けて議論していくスタイル。この方式は『新しい教育スタイル』のイメージを創出でき複数の教育機関で実施され、今では珍しいものでもなくなってきた。

 

AL系講義の実施報告に多く見られる記述として、予習段階での差と先天的な能力の差によるグルーピングの難しさから想定された到達点に達しないケースが多くみられ有意義な形を創出することが困難であるいったもの。

 

元々成績の良い優秀な学生さんは準備もしっかりとやってくるのに対し、成績の悪い学生さんは準備もしてこないことが多く、そんな両者が組み合わされば、優秀な学生さんは、ずっと成績の悪い学生さんの『お世話』をしながら議論することになり、おのずと議論のベースキャンプ位置の低さから到達点も低く、モチベーションとしても成績の良い学生さんは世話するのに疲れてしまってやる気を失い、成績の悪い学生さんも迷惑をかけていることに対して罪悪感を感じて講義自体を欠席しがちになるケースの発生が考えられる(実際、僕が聴講した反転型講義でも同様の現象が)。

 

大学入試という能力平衡装置があるといっても、入試には下限があっても上限はなく、一定レベル以上ならば誰でも合格してしまい、この凸凹は発生してしまう。ある程度の成績や能力の平衡が担保されないとAL系講義の成果を出すことが難しく正直、運次第となる。

 

また、生徒のパーソナルな部分、特にリーダーシップやコミュ力がないと議論もコントロール出来ず、ここも要請される前提条件なので成功するかどうか微妙。

 

本来ALとは盤石の基礎知識を有している事を前提として導入しないと空転することは目に見えている。前提条件を鑑みるとALの導入は極めて難しく、確かに皆で一つの題材に向かって議論しているのは見栄えは良い、しかし内実としては厳しいものを抱えているのが現状。

 

ALを採用するなら一定の成績、能力面の平衡が担保され、準備もしっかりとこなせる予習能力があり、かつ円滑に議論する能力を全員がテンプレで備えている必要がある、これは極めて厳しい条件であり、やはり議論系を実施するのは基本的に難しい。

 

 よく基礎力の建築段階においてのAL系講義の成功例のようなものも見受けられますが、それは奇跡的なマッチングが発生したか、それとも結果を一部『加工』しているか、どちらかだ。

 

『加工』とは少し響きの悪い表現だが、成功したと説明しているものは、大抵教員の定性的な感想、もしくは評点の分布や何らかの成績に対する定量的表現を用いたものといったところだ。

 

まず学生さんの通期つまり4か月程度の学習成果を正確にはかる定量的基準は存在せず(この点に関しては後に述べる)数字を見栄え良く見せることは容易に出来る。グラフの縮尺を調整したり、評点に関しても試験問題ならば後述するように人脈による有利/不利が発生してしまい、ALによる成功度合いを正確に測ることが困難。

 

確かに、そういった成功例で示されている数字に嘘はないかもしれない。しかし数字とは本当のことを言っていても、本質を言っているとは限らない、何とでも都合の良いように見せるための操作をすることが可能だ。

 

成功例全ての結論を否定したいわけではないが、成績分布の向上を盾に実証しているケースにおいては授業点が客観性をもって採点されてるか、試験問題が過去問と酷似していて人脈要素が強く影響していないか、といった部分を注意深く観察してみないとALが成功しているかは判断できない。

 

 

②試験は実施しない

 

次に成績評価の方法についてですが、定期試験の実施、そしてそこに提出物、出席点を加味して評価を下すと言ったスタンダードな手法は採用しない。成績評価に関しては複数回出すレポートの内容を見て点数を付ける。

 

試験実施にはいくつかの疑義があるので実施しない方が良い。また、極端な事を言うと個人的には成績を付けるという事も出来ればすべきでない。それは正確に評価を下すことが困難だからだ。

 

上で列記したことを詳しく話す。

 

⑶無試験のメリットと高得点獲得の手筋

 

まず試験をする、ということは通期ならば16回ある講義の内、中間、期末で2回使用する、つまり90分授業ならば3時間を試験実施に費やすことになる。この時間を講義時間として使用することが出来れば、より多くの内容を伝えることが出来る。

 

当然ながら試験時間を抑制することは可能だが、そうすると試験で出題できる問題に抑制がかかり、より良い試験問題の作成が困難になる。

 

また、試験に出やすい問題としては、90分程度で解答出来るものという最低限の制約を踏まえて出題できる問題数の限界を考えていくと、発展的問題を出題すると少ない問題数で当該科目の理解度を問え、どうしても発展的大問が半数を占めることが多い。

 

しかし、講義とは大抵の場合、初歩的な基本概念の説明に多くの時間をかけて丁寧に説明しながら試験1週間前、2週間前に試験に出やすい発展的問題の内容に触れるので、どうしても試験に出やすい発展的問題を短期間で修得せざるを得ず、内容の理解よりも、その内容から創作しうる問題を想定し、解法を暗記すると言った手法を選択する学生さんも少なくない。

 

他の講義の試験勉強との兼ね合いを考えても、中々、難しい。そういった事情を鑑みるに学問を深く学んでいく学習よりも試験攻略に特化した学習の方が成績面では有効に働いてしまうのも悲しい現実。

 

試験で高得点を獲得する手段について、正直、大学の試験とは人脈ゲームの様相を呈している。過去問を入手する経路の確保、手に入れた過去問の解答を作成しあってくれる友人の存在。こうした人脈を使って早期に対策を打つことが試験攻略の王手飛車取りであり、学力よりもコミュ力がモノを言うのが大学試験

 

試験問題を毎度回収したとしても漏洩することは少なくなく、問題をこまめに変更しようにも講義内容が不変である以上、出題できる問題にも限りがある。実際僕も回収型試験問題の情報を入手したことがあるし、イタチごっこになってしまう。

 

上記の理由を考えても試験とは、純粋な成績というよりも、如何に有用なチャンネル(以下CH)を有しているか、そうしてCHから得た物資を利用する手法に優れているか、が問われ、過去問と解答さえ得られれば講義に1度も出席しなくとも(講義内でレポート宿題が出る可能性を考慮して講義を受けているCHが必要だが)単位取得、ひどいときは評点で満点を獲得することも十分可能。

 

こうしたことを鑑みると試験の実施による成績決定に対し疑義を抱いてしまうのが事実で、講義時間を増やす為にも実施は見送るのが妥当。ただレポート課題を出したとしてもCHを使って解答を共有したりされるので、どうしたってCH数が成績に直結してしまう。そこで提案されるのが評点による評価を捨てる事。

 

⑷教育成果の絶対的評価基準の不在

 

大学において、講義準備→講義→試験→評点付けといったフローで進めていくのが講義担当教官のベーシックな仕事、つまりは講義とは評点をいかにしてつけるかという帰着へ向けたもの。こうして採点された評点の平均値として算出したものを一定の点数に圧縮し数値化したものをGPA(Gross-Point-Average)といい、この値で生徒の学習における成果を評価し、研究室配属の際の参考値として採用される。

 

試験に関しても、またレポートに関してもCHによって成果が左右され、また、その総合でもあるGPAに関しても純粋な成績評価といえず、講義によっても評価がバラバラで、講義時間の2倍の学外学習時間を1単位とするといた文科省の1単位に対する定義も形骸化しつつあり、容易に単位を獲得できる『楽単』講義がどれか、といった情報をいかに正確につかんでいるかが重要になる人脈ゲームの様相を呈している。

 

GPAを上げたいならば、楽単講義を受けて、必修、準必修講義において過去問/解答を入手/製作することが重要で、むしろ向学心から上級生向けの講義を受ける方が、どんどん下がってしまう可能性もある。

 

現状の大学においては、生徒をいかに留年させずにカリキュラム通り卒業させるか、が重要視され、『下駄をはかせる』ことが常態化しつつあり、今の大学の成績評価を考えると、いかに生徒を滞りなく卒業にまで至らせるかといった大学のベルトコンベアー化が進行していると言える。

 

こうしたベルトコンベアー化に対して、どうやって落第者を抑制しようか、と頭を悩ませながら多彩な『下駄のはかせ方』を考案し続けて、結局のところ、複数のレポート、出席点、試験といった要素を増やし、生徒の成績をにらみながら傾斜を変更し続けて落第者を抑制するという謎の作業に優秀な研究者が駆り出されるのが、果たして有意義なのか。

 

結局、教育における最適スキームの模索が延々と続くのは教育における成果の定量的評価の絶対的基準が存在しない事にあるので、教育企画を採用して得られた結果が果たして成功しているのかどうかを議論することが難しく、モデルの有用性の議論は困難を極め、また学生の成績評価においても正確な指標の採用が困難であり、正確に学生の学習成果を判断することが、そもそも出来ないといった事態になると考えられる。

 

いっそ成績評価自体は捨てよう、とドラスティックな結論に至り、GPAの利用自体を投げ捨て、単位の合否のみを決定すればよいのではないか。

 

いささか過激な結論に至ってしまい、全文を読むと既存の教育体系の全破壊を肯定するような文章の様相を呈してきたが笑、僕は何も、教育システムの完全破壊を実行したいわけではない。しかし現在の大学教育を3年間受けてきた身としては優秀な研究者が疲弊していく様を見るには忍びなく、また国が補助金やらなんやらで助けてくれる論に関しても、正直期待できない。

 

日本とは良くも悪くも民主国家であって多数こそ正義の国なので国民生活に対して直接的に影響を与えない事象に関しては無関心で、ポスドク問題に関しても国民的に大きな関心事になることも想定しづらいために国家が『正しい』救済策を実施するとは考え難く状況は悪化の一途をたどることが想定される。

 

多くの国民にとって科研費の削減といったことは他人事に過ぎず、理数系研究者についても実利的に役立つものへの寄与が具体的に分かりやすくなって初めて多くの人は興味を示すため、国も動くとは思えない。

 

そもそも『今だけ、自分だけ』が加速していくグローバル社会において、誰かが助けてくれるはずだといった考えを持つのは危険。現状が好転しないという想定の下で、いかに無理のない範囲で現状に対して適切な対応をしていくか、が問われている。

 

 

③最後に

 

これまで述べたことは現在の教育スキームに対し個人的に思うところを付し、その中で、どのように処すのが適切かを自分なりに考えてまとめた次第である。

 

ただ、やはり学習に積極的でない学生さんと積極的な学生さんのゾーニング、動画配信といった手法は現実的に実行すべきだ。試験に関しては、やはり講義時間の確保と人脈ゲーの入り込む余地をミニマムにすべく複数のレポートを課すなどして対応するべき。まぁ流石に成績評価を合否だけにしてGPAを捨てるのは、やりすぎだと思うが笑。

 

教育とは効果を評価できる絶対的基準が存在しないため正解がなく模索が永遠と続いていく。ただその過程において内実が良く分からない横文字の見栄えの良い教育モデルに飛びついては混迷を極める現在の状況を憂いている一人としては、理系分野において優秀な研究者の教育的負担軽減のために期待できない国の支援になるべく頼らずに柔軟な思想で現状に対応していくという方向性で現在の教育的環境が良化されて行って欲しいと強く願っている次第だ。

 

未来の教育環境がより良いものであることを祈りながら記事を結ぶ。

大学生への推薦図書/映像

よく大学生が読むべき書籍100といった内容の記事をよく目にする、書籍だけでなく映像も入れるた推薦の不在に気づいたので、一度まとめておこうと思う。

 

 

攻殻機動隊SAC

 

 

初めにオススメしたいのは攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX。名前は聞いたことあるけども取っつきにくそう、といった印象があろうかと思う。攻殻機動隊とは義手、義足といった義体技術が進んだ近未来における公安警察の特殊部隊を中心としたSF作品

 

元々は士郎正宗の漫画作品として描かれ、その後に押井守によってアニメ映画化され、そして攻殻機動隊SACとしてTVアニメ化された、その後に攻殻機動隊ARISEとしてリビルド、といった歴史を持つ人気アニメ作品。

 

その中でもSACは最高傑作との呼び声も高い名作で、人間と機械の境界線、国家治安機関としてあるべき姿、組織論、移民政策の是非といった様々な問題が提起され、下手な新書を買うよりも多くの考えや疑問を与えてくれる作品である。

 

 

技術革新が提起する課題

 

攻殻機動隊は前述した通り義体化技術が進んだ世界を描く、具体的には義体技術が向上し電脳と呼ばれるマイクロマシン技術が発明されネットに接続することを可能にし、また義体化により脳と神経系以外を機械化したサイボーグとして生きることが可能になった世界が舞台(また2度の核戦争を経て今とは異なる世界情勢が展開されてもいます、この事は詳述すると長くなるので割愛)。

 

そんな技術開発が進んだ世界で電脳戦を専門とする特殊組織公安9課を中心に展開される。電脳世界において義体化技術と高性能サイボーグ技術の発展により人間とロボット(具体的にはAI)の境目はどこにあるのか、その違いについて本作では『ゴースト』と呼ばれる概念で区別される。9課が保有するAIロボットにして多脚戦車であるタチコマが提起する課題も中々興味深い。

 

タチコマは高い知性を有し、自律し、またタチコマ同士で情報を共有するために並列したりする高性能AIロボットでありながら実際の任務でも戦闘に参加するなど補助機械に留まらない活躍を見せる屈指の人気キャラ。

 

物語が進むにつれて自身は何故生まれたのかといった実存主義に至り草薙は任務での不確実性を向上させる因子を内包しているとの恐れから一時的に任務から外します。しかし仲間のために自己犠牲を払って9課を2度救う。この帰結は涙を誘う胸アツ展開なので是非見て欲しい。

 

機械の発達という課題においては近年ではAI技術と人間の共存の課題も提起されている、機械が反乱を起こし人間を破滅させるのではないか、といった極端な思想に代表されるように、我々は機械を敵視しすぎるてらいがあります、また僕自身AI論法ともいうべき主張をされる方への危険を感じる。

 

『それ、AIで将来的に出来ます』といって煽ったりする方のほうが議論になりやすくテレビ受けするためにマスコミではよくみられる論法だが、僕はそうは思わない。機械は人間の仕事を奪うよりも向上させる方に寄与するはず。将棋ソフトポナンザが発展しプロ棋士を凌駕する実力を持っていてもポナンザ同士の対戦に熱狂はない、研究対象の道具としての採用がベターという立ち位置に落ちついている。

 

AI論法において将来出来るというのは保障もなく、お笑いもAIで出来るとのたまう人もいますが、おそらくネタ作りの補助といった形での採用に留まるはず。機械に対する反発を招くAI論法は危険だと思います。

 

ホーキング博士の言うロボットの反乱による人間の支配の終焉、については『ターミネター』が分かりやすい。核戦争を機械が誘発し人間と機械の戦争が始まるといったことに対しアンサー作品とも呼べる作品が存在する、『マトリックス』。マトリックスでは人間は機械に支配されるものの人間界から救世主が現われ機械との戦争に打ち勝つと帰結する。実はマトリックスに大きな影響を与えたのが攻殻機動隊だ。

 

マトリックスシリーズの生みの親、ウジャウスキー兄弟は攻殻の影響を明言していて、その影響は支配の定義に現れている。『サピエンス全史』にも書かれているが『人間が支配者となれたのは人間こそが虚構を生み出す能力に長けているから』と主張する。

 

マトリックスにおいて人間は機械によって作り出された映像を見せられていて実は絶滅寸前であるという設定が採用され、これは虚構の創造こそが支配と同値であるという思想を持っていると言える。機械が人類を虚構で支配する能力は人類間の家族、愛、共同体といった虚構の前には勝てないというのがマトリックスの最大の主張である。

 

この支配を巡る論争も攻殻機動隊内では提起され、SACにおいても虚構世界に支配された人間の話が複数登場し、電脳世界という虚構による支配といったガジェットは全世界のクリエイターに影響を与えている。

 

 

SACという現象

 

本作の題名スタンドアローンコンプレックスとは独立した個に影響を受けた人々や物事がまるで影響を与えた個の意思とは無関係に絶対的な個による統一的な事象のように複合体として伝播し続ける事、ややこしいですよね笑。

 

本作においては笑い男事件、個別の11人事件という2つの事件を軸にシーズン1、シーズン2が構成される。両事件に共通するのがSACという思想。

 

笑い男事件は電脳世界の不治の病である電脳硬化症の治療薬を巡る関係者の不正行為を白日の下にさらそうとした犯人であるスマイルマークで自身の顔を隠すようにハッキングしながらテレビの天気予報中に関係者の証言を迫った笑い男に追随するように企業脅迫が行われるといった笑い男本人の犯行にかこつける犯罪が起こる。

 

個別の11人事件でも全く関係ない人間同士がある特定の目的のために相互作用を起こしながら犯行の波が伝播していくといった現象が発生する。

 

これは並列化する時代が引き起こす暴力だ。ネット炎上といったものも全てではないですが一部はSACと言えなくもなく、全く関係のない独立した個がお互いが見知らぬうちに相互作用を引き起こし、それに連なって情報を並列化した人々が現象を大きくしていくといったことは拡散し大きなうねりを起こす現代に潜む新たな暴力の一種だ。

 

このように攻殻機動隊は前述した問題以外にも様々な考えさせられることが多数あるので是非ご覧あれ。

 

 

 

セイバーメトリクスの落とし穴(お股ニキ著 光文社新書)

 

次にオススメしたいのはツイッター界でも随一の野球クラスタとして知られるお股ニキさんが書かれた新書、通称お股本。現代のデータ主義が進んだ世界で起こっている事象を考える良い書籍だ。

 

 

合理主義が殺す娯楽性

 

野球に詳しくない自分は読めるのか、心配、と思ってらっしゃる方でもイチロー選手は御存じだろう。日本野球界が生んだ最高の俊足巧打の外野手であり2019年に引退された名選手。そのイチロー選手は引退会見で『今の野球は考えることをしなくなった』とコメントを出した。これはどういうことなのか?

 

おそらくですがデータ分析が発達した今は選手自身で判断する前に事前にどういった挙動をすることが成功確率が高いかをアナリストから教示されてプレーしていることを指していると思われる。

 

本番で慌てないように事前に本番を想定し考えられる展開の予想と対応を事前に考えることによって本番で考える事を減らすのは合理主義のアメリカらしい考え。しかしながら、現代野球においてはいわゆる動くボールとよばれる半速球であるツーシームカットボールの多投で芯を外しにいく投球術に対応するためにフライボールレボリューションによるフライを打ちにかかる打撃術が登場する。

 

またそういったダイナミズムに対応すべく落ちるカットボール通称スラットや早く激しく変化する変化球と豪速球を組み合わせる投球術が支配的とされ、今のメジャーリーグは力と力のぶつかりあう大味の野球が展開されている。

 

そして成功例は模倣され『並列化』されるのが技術が発展した合理主義のアメリカであり、投手は100マイル近い速球と万能変化球スラットを兼備した本格派で溢れ、野手も打ち負けないフィジカルを持った力自慢が幅を利かす。

 

日本人が好きな思想に『柔よく剛を制す』があり、まさにイチロー選手は大柄のメジャーリーガーを相手に小柄な体格でありながら技術と柔らかい体で世界最高リーグであるメジャーリーグで大活躍した、この事象は日本人にとってのカタルシスにバッチリとハマリ、野球ファンに限らず多くの日本人を楽しませた。

 

今の野球は支配的ピッチングが模倣され、柔が出る幕もなく剛が制す時代となっており、極端な守備シフトを始めグラウンドに出るまでに準備してきた事を披露しているとはいえ一種の思考停止状態になっているように見える。

 

そして技術の向上と支配的挙動の発明、改良、進化を日進月歩で進めるメジャー野球界いおいて悲劇が起こる。アストロズのサイン盗み事件。

 

野球において投球をする前に投げる球の種類をサインで伝え実行に移す過程が存在し、そのサインをホーム球場に設置されたカメラで撮影し分析し解析するソフトを用いて瞬時に味方打者に伝えたら、投げられる球種が判明した中でのトッププロの打撃はどうなるか、

 

これを実行に移したのがアストロズ。おそらく野球を知らない方だと、何が問題なんだろうと思う方もいるだろう。実際、アストロズワールドシリーズでサイン盗みにより滅多打ちにされたダルビッシュ選手本人も『彼らは悪気があったわけでなく先鋭的技術の採用として実行したのではないか』と一部理解を示す発言をしている。

 

野球界には不文律がいくつか存在し、その一つに投手捕手間のサインを盗む行為は御法度というのがある。しかし明確にルールブックに記載がなく、合理主義が発展することで相手をだますこととルール違反の境界が曖昧になった中で起こった悲劇とも言える。アストロズにとってホーム球場の設置されたカメラによる撮影やサインの解析技術は違反というよりも発達した技術の一種と捉えていたのだろう、これは難しい。

 

相手を上回ろうとする志向と支配的挙動の模倣と拡散を繰り返す合理主義による野球が、どうなるかわからないという不確実性にも近い娯楽性を叩き潰してしまうのは野球界以外でもサッカー界でも見られることだ。

 

サッカー界でもデータ解析技術は極めて発展し戦術戦略における準備の量と質は年々向上し、多くのチームが不確定要素の排除のための合理的応手開発と決定を行う技術を有している。

 

そして、このように不確実性を排除する準備の徹底と支配的スタイルの模倣が続くと、どうなるかというと質的優位性がモノを言うようになる。

 

サッカーで言えばメッシ、ロナウドのチームが支配的だった10年代の欧州サッカーが代表的。野球においても同種の対決となるために出し抜くためには元々の才能で差がついてしまうのが現状。

 

この方向性が正しいのか、それは議論の分かれるところで、様々な議論や意見があるのが普通だ。こうした娯楽性と合理性のあり方を含め、本書には様々な野球界での技術や思想が掲載されているので、野球に興味のある方は勿論、無い方にも読んでもらいたい。

 

 

 

③桐島部活やめるってよ(朝井リョウ著 集英社)

 

 

この書籍は映画化もされた有名作品で、タイトルのキャッチーさも相まって多くの方が聞いた事があるだろう。まず桐島なる人物が登場せずカタルシスが明確にあるわけでもなく、イケてない映画研究部の部員たちの哀れな扱われ方を見て悲しくなり、映像化されると余計に難解な印象が強くなったのではないか。

 

これは村上春樹の『ノルウェイの森』でも見えた現象なのだが、難解な文芸作品は表現できる次元を上げると余計に難解になる。ではそんな『桐島』について語る。

 

 

実存主義とは?

 

いきなり実存主義と言われても難解だろう、例えばペンとは書くために作られた、消しゴムはペンで書いた文字を消す為に作られた、では人間は何故作られたのか、この問いについて考えることが既に実存主義

 

ドストエフスキー罪と罰に代表される作品が提起し、ニーチェ、ハイテガー、ヤスパースキルケゴールといった思想家が発展させた。この桐島とは王道路線であるスクールカースト最下層のダサイ男の子たちによるイケてる奴らへ一発かましてやるぜ、的なカタルシスは確かにない。しかし僕は、実存主義的立場から彼らは一矢報いたというのが本作の最大のカタルシスではないかと考える。

 

この作品の最大の特徴はバレー部のリベロを務めるスクールカーストの頂点に君臨する桐島と呼ばれる男が部活を辞めて顔を出さなくなってから数々の学生たちに影響が徐々に及んでいく様を描いていて、当の桐島は登場しないことは前述した通り。この作品は桐島ロス現象ともいうべき桐島が居ない事で次々に起こる波及を描く作品。

 

 本作で最も桐島ロスの影響を受けない人物である映画部員前田、そして桐島の親友にして空虚な人生を送る菊池の対話というクライマックスへと向けて徐々に壊れていく様を描く、よって作品自体は地味で映画化されたものもアカデミー賞受賞作なのにもかかわらず金銭回収が困難だった。しかしながら小説、映画どちらにしても学園生活の描写はとてもリアルで素晴らしい。

 

 まず桐島という校内における絶対的な存在の喪失において、神格化されている桐島の到来を信じ続けるというのは救世主メシアの到来を信じ続けるユダヤ教徒のようだ、桐島の不在について悩み続けるという様は僕の目には、ある作品との相似性が思い浮かぶ。それは遠藤周作『沈黙』。

 

『沈黙』とは、江戸幕府において禁教とされていたキリスト教を信仰する宣教師が捕縛され信仰を捨てることを要求され、従わなかったことで拷問を受け続けながらも神はきっと助けて下さる、と信じるも、弾圧は激しさを増していき、なぜ神は助けて下さらないのか、本当は神はいないのではないのか、何故神は、主は『沈黙』するのか、と問う作品だ。

 

神の沈黙と向き合い続ける中で信仰の意味を問うのがテーマであり、信仰とは神の存在を絶対視し思考を停止させるのでなく疑念を持ち続け質問を投げ続ける事であると僕自身は感じ取った。

 

沈黙の最後に司祭は棄教を意味する踏み絵を行うが、そこで沈黙していた神の声を聞く。この声を巡る議論は様々で、一度読んでから議論したほうが良いので、ここでは付すのは辞める。桐島の沈黙の中で緩やかに人間関係や意識が変化していく中で最後の桐島のセリフが明記されていない『桐島』の声について色々と考えてしまう。

 

桐島という神の不在による混乱はニーチェの有名な発言『神は死んだ』を想起させる。ニーチェは前述したように実存主義哲学の発展に寄与した人物で、永劫回帰と呼ばれる無意味な一日の繰り返しこそが人生だ、という考えも有名。

 

ツェラストラで展開された神は死んだ発言については、絶対的な視点の放棄を促す目的があり、神を超越した超人を目指すべしと主張した。絶対的存在の喪失による共同体の混乱は昭和天皇を巡る自粛ムードを始めてとして日本社会でも経験していることだ。

 

『桐島』内では菊池宏樹という人物が実存主義へと至る様がメインルートで、彼は彼女もいてクラスメイトの何人かが羨望する性交体験を経て、友人にも囲まれ神様桐島の親友という状況であるにも関わらず虚無を強く感じながら生きる目的を見い出せず、いつかは消失する有限の寿命の使い道に対して悩み、そして桐島の不在による不安定さにより疑念を強く持ち、自身の周囲にあるものすべてが無意味であり、全てが虚構でしかないのではないか、と虚無主義に至る。

 

 

菊池宏樹は、そんな虚無が支配する虚構の世界で、楽しく生きている映画部員の前田に『何故、映画を撮るのか』と問いかけ前田は『好きだから』と返す。それを受け菊池が持ち合わせなかった虚構世界における自身の生きる意味を持つことに対して熱中出来るものを持った前田に対して一種の敗北を感じる、

 

 

このシーンと相似したものとして『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』がある。この作品はオウム真理教を下敷きとした作品でノスタルジアという暴力を描いた名作。ノスタルジアを感じさせる良かった過去の再現を実行した世界へと移行するためにガスを散布する(オウムのサリンガスによる現世のリセットのメタファー)ことを阻止しようと奮闘するしんのすけに対して『何故そこまでして、こんな世界を守ろうとするのか現実の未来は醜いのに』と問う、

 

しんのすけは答える、『家族と喧嘩しても共に生きたい、オトナになりたいから、綺麗なお姉さんと付き合いたいから』と答えるのです。これは『桐島』の最後の対話とよく似た構図。

 

前田としんのすけの回答こそが実存主義への一つの解答と言える。なんの意味もない虚構世界において熱中出来る何か、守りたいと思える何かを見つけられるかこそがテーマと言えるのではないか、と語りかけられているように感じる。

 

そして実存主義が提起する『何故人間は生まれるのか』について僕なりの解答を付す。それは『誰かの救世主になるため』。メシアのように万人を導くのではなく、世の為、人の為というと説教臭いですが誰かにとっての特別な救世主になるべく研鑽を積み、困っている人がいれば助け、無意味な虚無な虚構の世界において必要としてくれる人を救えるように生きていくことが生きる意味と信じている。

 

そんな実存主義を巡る議論を提起するのが本作。是非読んで映画版も見て欲しい。 

ペップシティとコアUT

 

バルサ時代

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ペップは自身も選手時代を過ごした故郷のクラブ、FCバルセロナの監督として伝説的なポゼッションスタイルのクラブを作り上げ一世風靡した。

 

なぜバルサ監督を辞したのか、本人は疲れ果てたから、と説明したが、詳しく言うならば進化するためには大きな軋轢が発生するという課題を自身の手では解決出来なくなったから、というのが理由だろう。

 

ペップのチームは基本的に3年サイクルで作り上げるモデルを採用していて1年目で哲学と基本概念を注入しながら得点能力の高い選手が得点を獲りやすいようなスタイルを開発し2年目で幅を広げるべく様々なシステムを採用して3年目に自分たちのストロングポイントを発揮できるシステムを採用し足りない所を補強して結果を出す。

 

バルサでは1年目にポゼッションスタイルの原型を完成させメッシという得点源のために偽9番も開発され2年目には基本陣形となる433に加え4231や352といったシステムを開拓し更にはイブラヒモビッチのようなフィジカルスタイルの9番も獲得するなど幅を広げ3年目にはメッシを偽9番とした433を完成形と設定し、伝説的チームを完成させた。

 

翌4年目はセスクを獲得しメッシとのダブル偽9番を採用することで343という超攻撃的3バックチームへと昇華させることを目指す。しかしDFラインの中心選手であるプジョルはケガで離脱、ピケは調子を大きく崩し、チャビはインテンシティーが低下し、サンチェスはケガが続き、ビジャはCWCで大きなけがを負い、メッシは得点数は伸ばすものの増長し守備への貢献は0。

 

そもそもバルサは相手選手の間で受けるポジショニングで密集地帯を好守両面で作り出すことで数的優位を活かしたポゼッションと獲られたらすぐに取り返すハイプレス守備の一体性をウリにするチームなので主力の大幅離脱とメッシの守備放棄はペップバルサの事実上の崩壊であり、また中央突破とショートカウンター以外に主だった得点手段もないチームゆえに中央に選手を並べる中締めを受けるとボール回れど得点獲れずといった状況が続いた。

 

その状況を打破すべく考案されたのが外攻めのための純正ウイングの活用と中攻めの強化のためにセスクを用いてメッシの負担を軽減する事だがあえなく失敗し歴史的得点力を有するメッシに守備を厳命出来るわけもなく自身の辞任が一番と考え身を引いた。

 

外攻めをしようにもカンテラーノのクエンカ、テージョでは荷が重すぎ、また中央突破に特化したツケとして高さのある9番もおらず、柔軟性が良い意味でも悪い意味でもないところにペップバルサの特徴があった。

 

②バイヤン時代

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1年休養を挟み次に就任したクラブがドイツの名門にして当時の欧州王者バイエルンミュンヘン。ペップ自身はブラジル代表監督が第一志望だったがブラジル人監督を望む協会側の考えもあり就任とはならず、選んだクラブはバルサ時代には存在しなかった強烈な外攻めを可能にするロッベンリベリーが在籍するドイツの巨人。

 

マンジュキッチの高さに加えロベリー(ロッベンリベリーのコンビの愛称)という速さを備えたクラブにバルサ仕込みのポゼッションを仕込めば最強のクラブになるのでは、という期待から凄まじい注目を浴びた。

 

ただ下部組織から一貫したメソッドで鍛え上げられたカンテラーノ(生え抜き)を中心とするバルサの選手とは技術レベルで大きく劣りボール保持のためのボール保持に終始してしまい中々上手く行かなかったのが1年目。

 

このことについては僕自身も強い懸念をペップ就任直後から感じていて、監督の仕事とはビルドアップとポゼッションによる組み立ての部分までで、そこからの得点を狙う崩しは選手の質に大きく依存するために最終生産者となる点取り屋の質以上のチームを作ることは出来ないのだ。

 

マンジュキッチは得点能力というよりもハードワークとフィジカルに優位性を持つタイプでペップバイエルンはペップバルサを超えるならば9番に本物が必要だろうと、そしてポゼッションに関してもバルサを知る人間が必要だと思っていた。

 

ペップは就任してから補強選手として要求したのはワールドクラスのアタッカーと中盤選手でした。前者は自身の弟が代理人を務めるスアレス、そしてネイマールレバンドフスキ、後者がチアゴでした。前者に関してはレバンドフスキ獲得で当時の所属クラブであるドルトムントと合意したが監督であったクロップが拒否し加入は1年後となり、またゲッツェという望んでいない10番が到来したのは誤算だった。

 

アゴは獲れたが、選手補強がバイエルンの場合資本の大量注入を良しとしないところがあるのでペップ自身悩みの種になった。

 

1年目はバルサ仕込みのポゼッション導入のために5レーン理論というピッチを縦に5つのレーンに分割し中央レーンと左右の端のレーンに挟まれた2つのレーンでの攻守を戦術の重要概念と捉えた新機軸を導入しビルドアップ、ポゼッションの完成度は向上した。

 

しかし前述したようなアタッカー獲得未遂により1年目は得点力に大きな障害を抱えロベリーもシーズン後半にケガがちであったのでCLではレアルに大敗し無念の1年となった(それでも国内では2冠)。

 

2年目にはレバンドフスキアロンソを獲得し、バルサ時代同様に3バック導入を含めたシステムの幅を広げるも中盤に使うには動きすぎサイドに置くと突破力のないミュラーの配置の問題、そしてゲッツェという望まぬ選手の扱い、ケガ人の続出、こういった問題により国内リーグ獲得のみに終わった。

 

翌3年目はロベリーに見切りを付け、バイエルンのストロングポイントはレバとミュラーの2トップへの同足ウイングからのクロス爆撃と捉えて、配置に囚われないポジショナルスタイルと2トップへの爆撃を兼備したチームを志し完成へと向かう。

 

成果が出たのがCLベスト16のユベントス戦。純正CBを欠く中でポゼッションで圧倒した1stleg、後半にリードを奪われながらも同足ウイングであるコスタ、コマンの突破からのクロスを浴びせ続け同点に追いつき逆転でベスト8進出を決めた試合はペップバイエルンの目指す形が具現化出来た試合として印象深い。

 

しかしながらベスト4のアトレティコ戦でペップ自身の持病(後の記事で付します)が発病しアウェイで競り負けホームで巻き返そうとするも追いつけず敗退し、バイエルン時代は3年間でCLを一度も獲れずに敗退する憂き目にあった。

 

バルサ時代の中攻めはミュラーの起用による2ボランチの採用に伴いゲッツェ、チアゴの起用を不可能にしてしまったので落とし込めずバルサ時代とは逆に中攻め以外の武器のみ揃うことになった。

 

フロントも会長であるヘーネスの収監、ルンメニゲCEOのドイツ人を集めたチームを作るという願望、出来るだけ金は使わないというスタンス、メディカルが練習場に常設していない問題、といったことに頭を抱えながらもクロス爆撃チームを構築しバルサ以外でもポゼッションは出来ることを示したことは大きな成功であった。

 

バルサでは中攻め特化型ゆえの柔軟性のなさに泣き、バイエルンでは周囲のサポート不足と中攻めの付加失敗に泣いたペップが次に指揮するクラブとして選んだのはイングランドマンチェスターシティ。

 

バルサ時代のフロントであるソリアーノとベギリスタインの2人が幹部にいてバイエルンでは不可能だった大型補強も出来るという環境は理想と言え、また戦術面でも技術力を武器としたパスフットボールを導入しているので柔軟性にも可能性がもてそうなことも就任を決めたキッカケになったかもしれない。

 

 

③シティ時代

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(1)前途多難

 

ペップシティの成功は難しいと考えたのはスカッドにおいてペップのサッカーについてこれないであろうメンバーが多すぎて殆どチームを入れ替えるぐらいのことをしないといけないから。

 

まずペップのチームは相手陣地での攻撃の時間を増やすことで得点効率を向上し失点確率を減らすことをチームコンセプトとして掲げる、なので最後尾のGKには純粋なストップ能力に加えて組み立てへの参加と広大なDF裏の領域のカバーを任せられる選手が必要なのでハートでは不可能。

 

そもそもケガが多くて計算出来ないコンパニは構想に組み込むことが困難、繋ぎが苦手でローラインの潰し屋のマンガラも厳しく、また高齢化したサイドバックの4人は左足からの正確なキックに定評があるコラノヴ以外の3人(サニャ、サバレタ、クリシ)では国内を制覇するのさえ難しく、中盤でも潰し屋のフェルナンドはペップのチームには居場所はなく、高齢化し動けない上にペップのことを忌み嫌う代理人を抱えるヤヤトゥレは論外、素行不良のナスリも構想外、突破力がないナバスもしんどい。

 

そして多くの方に否定されるでしょうが今でも思っているので結果を出した今でも言いますがアグエロでは到達点は高いものにはならないので最終生産者として本物が必要だとずっと思っていて、ペップ自身もジェズスを獲得したりサンチェスを狙いに行くなどアグエロに満足していないのは事実。

 

 

実際に高齢化したサイドバックをムバッペに突かれてCLではモナコにベスト16で敗退しリーグでもハートを切ることには成功したものの代わりに獲得したブラーボ(ペップはバルサでストレスを抱えていたもう一人のGKであるシュテーゲンを欲したのだろうが)が自動ドア状態で守備は崩れアグエロはポジショニングと守備貢献不足からスタメンをジェズスに奪われ、1年目はペップの監督時代の中でも何も残らない不毛な1年。

 

僕は、ほれ見たことかと思った。補強資金があっても理想的な選手を獲得するには巡り合わせがあり、特に最終生産者は獲得が困難でペップチームのベースが備わっていないシティは正直いばらの道なのだ。

 

(2)諦念とコアUT

 

 

しかしペップはシティを選んだ。旧知のフロントがいてデブライネ、シルバ、スターリングという自身のフットボールの具現化に寄与する選手もいる(少なすぎるが)からこその選択。というよりも自身のフットボールの具現化に適したクラブは、あの時代のバルサだけで、どのクラブでも一長一短なので仕方なかった。

 

メッシという21世紀最高の最終生産者、カンテラ時代から脊髄反射になるまで叩き込まれている保持と組み立てのメソッドを有したスカッド、前者の不足を同足ウイングの突破で補い後者は5レーン理論を駆使し叩き込んでいくしかない、しかしペップのような聡明な人間なら分かっているはず。『ペップバルサを超えることは不可能である』ということを。

 

ではペップのシティでの真の狙いとは何なのか、それはおそらく『究極のコアUTスカッド』なのではないかと思う。

 

ではペップの真の狙いである『究極のコアUT集団』とは何なのか。UTとはユーティリティの略で文字通り複数のポジションをこなす人間を指す言葉。コアというのは核になる選手の事を指し、プロ野球でも読売巨人軍の岡本選手は4番でありながら3塁、1塁、外野をハイレベルにこなしコアでありながらチームの起用の可能性を広げる選手。このことはサッカーにおいても当てはまる。

 

(3)コアUTポジショナル

 

サッカーは局所的なフェーズにおいてはGKを除く10人の位置ごとに相対する1人の相手と向き合い攻防を行うことが多い。だからこそ、いかに誰を浮かせて数的優位を確保するか、そして誰をぶつけて質的優位を確保するかが本質。

 

そこでUTを多く抱えていれば故障者が出ても即時対応が可能で安定して成績を残せるので重宝される。しかしペップはもう少し進んだ考えを持っている。ペップの言葉に『システムは電話番号である』という有名な言葉がある。これはサッカーとは野球のような競技とは異なり展開や守備のマークする選手の受け渡しなどで、いかようにもシステムと陣容は変更されるのでシステムは数字の羅列に過ぎない、という事。

 

それは事実で、特にペップは右ウイングと左ウイングを時間帯ごとに入れ替えることで相対する敵サイドバックを混乱させたり、ビルドアップの際にもサリーダデバロンと言われる独特の配置入れ替えにより一時的な変更を与えている。

 

しかし一時的だからこそ可能なのであって永続的な配置変換は不可能、なぜならUTでない選手ならば一時的な変更でないとかえって混乱してしまい本来の能力が発揮されないことは明白だから。

 

例えばバイエルンだとビルドアップの段階でサイドバックのラームとアラバはボランチに移動、ボランチアロンソは3バック中央のCBに移動、CBはSBのように大きく横に広がる。アロンソはそのままCBでプレーするには守備力はなく組み立てが終了すると元に戻る。ここで組み立てが失敗すると一時的に3バックのCBとしての守備が求められるために危機を招きやすい。

 

ペップの様々な戦術、戦略は実は一時的配置変換が基礎にあって偽SBもボランチ変換するサイドバック、偽9番もトップ下変換する9番、このように一時的なUTを担わせるのがペップ戦術の肝と言える。

 

配置変換した先でも本職の様に振舞えると変換による効果もより発揮され、何よりも守備のフェーズに切り替わった時にこそ効果を発揮する。本当の意味でのUTつまりは変換先でも本職のように振舞える選手のみでチームを構築することが出来ればペップの理想のチームが出来る。

 

というよりもペップの狙いとは変換可能選手を数多く抱え、一般的なUTとは違いチームの核を担えるクラスの選手でありながらUTとして変換に耐えられる選手を集めたチームを望んでいるの、というのが予想である。

 

バイエルンではIH,SBに対応可能なラーム、アラバは代表的なコアUT。ペップのチーム以外でも9番が左右に流れたりしてMFもしくはウイングの侵入を促すケースがあるが、仮にウイングでも本職として振舞える9番ならばサイド突破にも対応しなければならないために相手DFは大いに手を焼くことが予想される。

 

実はこのUT性を有していたのが獲得未遂に終わったアレクシス・サンチェス。具体的に変換性を増やすペップの考え方とシティでの歩みについて触れよう。

 

 

(4)最終生産者メッシの幻影

 

 

実はコアUTの最高のお手本こそリオネル・メッシ。メッシは右ウイングでは逆足として振舞え左ウイングでも突破してからのクロスも可能(バルサではハンマー型9番がいないので発揮されず)、9番としても稀代の得点力を発揮しトップ下で創造性も発揮でき、中盤での崩し、中盤からの組み立てに関しても一流、つまり時間帯によってどこの位置に移動しても本職として振舞る最高のコアUT。

 

 

ペップが求めるコアUT型9番はウイング出身のほうが好みでシティに来る前はオーバメヤンを欲し、2年目冬の市場ではサンチェスを求めたことからもウイングでも本職として振舞えるタイプが好み。レバンドフスキアグエロも得点力に優れた選手であり信頼はしているのでしょうが翼を隠し持つ9番を欲している。今で言えばムバッペが理想的だが、中々獲得が難しい。

 

(5)シティが抱えるコアUT

 

 

 シティに在籍するコアUTについて紹介を付します。

 

 

〇盾となった矛 カイル・ウォーカー

 

ウォーカー獲得をペップが決断したのは1年目のCLモナコ戦でムバッペに偽SBがぶち抜かれた時がきっかけ。SBに対してはCB変換が可能なフィジカルタイプを望んで獲得された。ペップシティではCBとしての守備力を兼備しボランチとして中盤の守備力を担保するDMFとしての振る舞いも可能。RSB、RCB、DMFという変換をこなせ、右全域カバー能力はないが攻撃的なシティを支えるコアUTとして貢献度が非常に高い選手です。

 

 

〇悲運の戦術兵器 ベン・メンディー

 

フィジカル型選手であり、彼こそ真のコアUT選手と呼べる選手。左サイドバックとしてもプレー出来るだけでなく左ウイングバックとして左全域をカバー出来る選手でもあり、偽サイドバックとしてDMFの位置で潰し屋にもなれLCBとして受け止めることも可能、また通常のサイドバックとして左全域をカバーしながらの偽サイドバックも可能な稀有な左サイドバック

 

 

〇究極の万能戦士 フェルナンジーニョ

 

ジーニョはヤヤの相方選手権を勝ち抜いたシティの潰し屋、組み立てへの貢献も高い万能選手はペップ到来により彼の実力は発揮された。中盤より下のGK以外のポジション全てで本職として振舞えるコアUTで、あらゆるビルドアップの実現を可能にする最重要選手の一人。

 

 

〇ロマン派CB以上の存在 ストーンズ

 

ペップシティ1年目にはCBとボランチの選手が入れ替わるビルドアップが披露された、あれはストーンズボランチ、CBの変換を可能にする能力とジーニョのCB、ボランチの変換可能能力を合わせた戦術。

 

 

〇神 デブライネ

 

攻撃的選手として切り替えからのスルーパス、サイドでの高速クロスに加えてボランチとしてもプレー可能でギュンドガン獲得はデブライネのボランチ起用を想定したかもしれない。ボランチ、IH、右ウイングで神がかったプレーが可能なコアUT。

 

 

〇守備の大黒柱 ラポルテ

 

彼がどれだけ大切な選手か今季ケガで離脱したチームを見れば明らか。守備的左サイドバックとしてもプレー可能でボランチとしてショットガンを放つ役割にもフィット可能な選手。

 

 

〇戦う芸術家 ベルナルド

 

加入当初は順応に苦しんだが今ではすっかりシティの看板選手となった。左ウイングで偽翼としてプレー可能で右でもヌルヌルドリブルからのシュートも放ちながらしっかりとファイト可能な現代的な選手。

 

 

〇覚醒した英国の翼 スターリン

 

完璧な崩しから最悪のフィニッシュを繰り返していた残念な選手であったウインガーもペップの下では同足ウイングとしてチャンスメークが可能で得点能力も向上したため逆足として左でもプレーが可能に。中盤でのプレーにも挑戦し偽9番としてもプレー。ペップにとってジーニョが守備のコアUTなら攻撃のコアUTはスターリング。

 

 

本当ならばヤヤもOMF、DMF、CBで本職として振舞える選手であったのでペップは貢献度の少なさを考慮しても代理人が侮辱的発言をメディアにするまでスカッドからは外そうとしなかった。

 

 

 ここまで列挙した8人のコアUTを起用するとどうなるか。

 

選手の入れ替えなしに相手の出方に合わせたビルドアップで前線プレスを交わし柔軟な配置変換でポゼッションし流麗なポジションチェンジで様々なフィニッシュの選択肢を選ぶことが出来る。

 

ペップバイエルン1年目のリーガ前半戦のドルトムント戦。中盤のラーム、クロース、ハビマルの3人はビルドアップの時はラームがSB変換したCBの間に落ちてCB変換しクロースがボランチ変換しハビマルはトップ下の様にせりあがる10番変換を行うことで組み立てを可能にした。

 

前半に試合を支配するために高さのあるハビマルを前に出向かせてロングボールも含めてカウンターが強いドルトムントを無力化しようと試みた一手。この後にゲッツェ、チアゴファンブイテンの投入により試合を完全に掌握するが、この交代による変化はラームのボランチ、IH、RSB変換可能性、そしてハビマルのCB、DMF、IH変換可能性を利用したもの。

 

ハビマル、ラームというコアUTを利用した一連の采配をシティでは列挙した複数のコアUT選手により交代なしに実現可能。この変換可能性の開拓と実現こそペップがシティでやりたい一番重要なことなのではないか、と思われる。

 

ここでひとつ疑問がわきます。コアUTは分かった、変換可能性の開拓も分かった。しかしながら、そのチームって強いの? なんでペップはバイエルン、シティではCLを獲れないの? その理由がまさにコアUT戦略の負の側面。

 

シティは間違いなくコアUT選手と、それらの選手を組み合わせた戦術で相手の裏をかきいくつかのタイトルを実際獲得している。ではなぜCLで勝てないのか、今季の停滞の原因は何か? それはコアUT化というペップのメインスキームの弱点と彼のチームの潜在的弱点によるものであると分析する。

 

(6)ペップチームの課題

 

 

(序) アウェイ退きホーム攻め戦略

 

 

まずコアUTスカッドとは選手の入れ替えなし(もしくは最小限)に本職のように振舞えるスタメン級の選手の配置変換を中心としたチーム。ペップは根底にボールを握り試合の主導権を握るためには相手の予想を上回る配置変換と攻め筋の開発が必要と考えていて『秩序だった無秩序の構築』という現代サッカーの攻撃戦術をリードする監督なのは言うまでもない。

 

ペップがバイエルン、シティを通じて取り組んでいる複数ポジションを高次元に本職としてこなせるコアUTを複数作って相手の出方に合わせて手筋を変更してボールを握り相手を倒すというコアUTポジショナル理論こそがペップ戦略の絶対軸。

 

大耳を語るうえでは10-11シーズン以降は別次元の大会になってしまったことがある。簡単に言えばメッシのバルサロナウドのレアルが常に優勝の最右翼であり、それ以外のチームは2強が転げるのを待つしか優勝はない。

 

元も子もない言い方をすれば大耳とはメッシバルサロナウドレアルの調子のよい方が制して両者の調子が崩れるか奇跡的な勝利があった時のみ他のチームに優勝の可能性がある。大耳とは戦術の完備性ではなく絶対的得点源で殴れるか、が重要な大会であって分かってるけど抑えられないレベルの攻撃力こそが物を言う

 

そして大耳を獲得すべくメッシ、ロナウドを抱えないチームの監督はいかにして欧州を制覇するか、について頭を悩ませながらしのぎを削ってきたというのがココ4,5年の欧州シーン。

 

メッシ、ロナウドを抱えない最前線で戦うチームの名将として列挙されるのはクロップ、アレグリ、ペップ、シメオネ、トゥヘル。このうち大耳を制覇したのはメッシを抱えていた時代のペップと昨季にバルサに奇跡的勝利、レアルの不調も重なり大耳を制覇したクロップのみ。11-12以降ならクロップのみ。ではなぜここまで大耳を稀代の戦術家たちは逃してしまうのか。

 

ペップとアレグリは選手の起用の柔軟性、システムの可変性の向上といった面でオランダ流、カルチョ流という違いはあれど似通った監督。そして両者の大耳への対応はアウェイ戦では自軍の手筋を極力見せない言わば日本シリーズ第1戦でコントロールの良い投手を先発させて相手打者のデータを獲得するかのように、引きながら様子を見る。そこで得られたデータから応手を全てそろえてホームで叩き1stleg2ndleg全体で相手を上回ろうという戦略を採用する傾向がある。

 

ただこの戦略ではアウェイ戦での消極的な戦いで不利な結果を持ち帰ってしまいホーム戦で善戦するもあと一歩足らずで敗走するという結果を多く招く。ここにペップ、アレグリの戦略の弱点がある。サッカーという競技は得点、失点が少ない傾向にあり、応手で完璧に相手を崩したとしても得点が確実に獲れる保証はなく、日本シリーズと違って7戦もないことも難しい。

 

 

(破) 質に依存するコアUTポジショナル

 

 

ペップはバイエルン時代以降はコアUTとポジショナル理論のハイブリッドという戦略を展開してきた。そして、このコアUTという特殊な性質を持つ選手が稀有であることがペップチームの大一番での弱さ、最大値の形成の難しさに影響を与えてしまう。コアが稀有な選手である以上そもそもスカッドをつくるうえで移籍金の問題で資本の大量注入が必要で、また代わりが利かない選手ばかりなのでピークの作り方が難しい。

 

例えばシティではメンディーというレフトバックが恒常的に出場できないので左サイドバックはシティの守備の穴となっていてメンディーが在籍はしているために本職の主力級の選手の獲得も出来ず苦しくなっている。

 

また2年目の資本注入からも明らかに狙う選手が希少種ばかりなので金銭的にもメガクラブでないと具現化不可能なのがコアUTポジショナル。 

 

また攻守のクリティカルな局面において選手の質に大きく依存する傾向が強いためにラポルテが離脱して失点が離脱前の2倍となってしまった。元々少数の選手による少数の選手でしか出来ないフットボールスタイルの採用による弊害として主力の離脱に極端に弱いチームとなる。

 

ペップ自身も言及しているように『監督の仕事はシュートの局面までの誘導であり、そこからは選手の質に依存する』のでバルサのようにケガしない絶対的最終生産者であるメッシがいてこそ完成するスタイルゆえに、バイエルンではケガ人が続出して満足なスタメンも組めず大耳を逃し、シティでも常に不在の左サイドバックに加えて最終生産者の不在が大きく響いている。

 

攻守における得点/失点が監督ではなく一部の主力に大きく依存することがペップチームがメガクラスの一発勝負に弱い理由。

 

 

(急) 対策の汎用性とクラブの格の問題

 

シティの攻撃の無力化については主に3つ挙げられる。

 

1つ目はシティのDFラインを窒息させてビルドアップを阻害しミスを誘発させてショートカウンターを繰り出すストーミングスタイルの戦法。リバポやスパーズは、この戦法でシティを混乱に陥れることが多い。ペップ自身の応手としてはロングボールを積極的に前線に蹴りだして回避することがベター。バイヤンではハビマルやレバンドフスキめがけてロングボール回避を選択。

 

2つ目は中盤でのボール循環を阻害するために5レーンを全て閉鎖する方法、多くのチームが採用するシティ対策。ペップの応手としてはあえて待ち構えたところに配球し個の力で引きちぎる方法。シティではサネ、バイヤンではDコスタの暴力的な突破で応手。

 

3つ目はドン引き戦術。相手の攻撃を全て受け止め続ける戦略といえば聞こえは良いのでしょうども笑。この戦術は基本的には引き分け狙いの戦術であり典型的な弱者の戦術。応手としては高身長のアタッカーを起用してクロス爆撃を食らわせる方法。バイヤンでは、この方法で逃げ切ろうとするユーベを叩きのめしました。

 

これらの3つの防衛策には共通点がある。それはリソースが潤沢でないクラブでも模倣可能であること。また応手としては長身アタッカーと爆速ウイングが必要だがシティは前者はおらず後者もサネのみでありケガによる長期離脱により起用できない今季のシティが苦しんでいるのは必然。

 

次にシティを、どう攻めるか。これも3つの方法が挙げられる。

 

1つ目は脆弱な左サイドを崩す方法。元々メンディーがケガ続きでロクにプレー出来ない現状においてシティの左サイドバックはジンチェンコというMFタイプの選手。それもボランチというよりはシルバに近いアタッカー気質の強い選手。よって単純なスピードには勝てずフィジカルで押しても容易に崩れ去る。これは早急にメンディーに見切りを付けて主力級のLSB獲れば解決されるだろう。

 

2つ目はセットプレー。ペップはセットプレーのディフェンスに関しては、緩いところもあり、またフィジカルタイプよりもテクニシャンが多いシティにとっては、あっさりと得点されることも少なくない。この点に関してはセットプレーの守り方の再考が求められる。

 

3つ目はハイラインのシティのバックスの裏めがけてヨーイドンする方法。CBが鈍足なこともあって案外勝てることも多くシティの失点パターンの大半がCBのスピード負け。ウォーカーをCBで起用してスピードを担保するなりCBの補強が必要。

 

 

こういったシティ対策の汎用性により今季のシティは苦戦を強いられている。この攻守6つの問題のうち主力級のLSB獲得と長身CFの獲得、また質を伴ったアタッカーの獲得である程度は解決されるので来季の大型獲得に期待するしかない。

 

そして最後に挙げられるのがクラブの格の問題。シティには文明はあっても文化がない。スタジアムも魅力的とは言えず選手からの熱望も感じられない。こういったことは一朝一夕にはいかないとはいえ補強戦略において名門クラブに金銭面で上回らないとコアの獲得が難しい。ペップシティが、どのような帰着を見せるのか、果たして大耳獲得はなるのか。注視してこれからも見続けたい。