牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

僕が講義をするなら。

今回の記事は大学教育(といってもそんな固い内容ではないですが)について自身の思うところを付す。僕は現在、某国立大学の理系学部3年生で、3年間様々な講義を聴講する中で、『こうしたら良いのに、なんでこうしないんだろう』と思うところが多々あり、自分は将来は物理学者を目指していて、もしかしたらアカデミックポスト(教育機関の講師)に就きながら研究をしていくかもしれない、そんな未来予想図を思う中で、自分が仮に大学などの教育機関で講義を担当するなら、どのように進めていくかを書くとする。

 

 

 

①講義はストリーミング

 

まず講義の進め方、教室に決まった時刻に集まって講義を集団にするといった形式は採用しない基本的に理系の講義は実験を除いては、座学の講義と演習形式の2種類が列挙できる。

 

両方ともに講義室に聴講者を集めて講義を行うということはせず、聴講者のメールアドレス(学内用のメールアドレスを近年では入学時からテンプレで存在するはず)に講義動画を送信し、その内容を学習してもらう形が理想的。

 

演習系講義に関しては、予習用動画、問題、復習用動画の順に送付し、個々人で学習してもらい、問題についての議論を教室でおこなったりするようなスタイルは廃す。

 

上に付した内容のメリットについて述べる。

 

⑴動画送信によるメリット

 

まず動画送信による講義形式なので教室に集まることはないため、講義に遅刻するといった概念が消失する。よく絶起といった言葉を使われる学生さんを見かけますが、動画配信なので教室に行くこともなく、通学に時間のかかる学生さんにとっても通学に要する時間のロスを抑えることが出来る

 

また、動画なので、何度でも見れて、何度でも聞けて、巻き戻したり、倍速で再生する事も可能なので、聞き逃すといったことも少なくなる。

 

ある時ツイッターで某大学の講義中、多くの学生が担当講師の話を聞かず私語をして授業崩壊をおこしている様を撮影した動画が流れてきた。僕は被害者しか、この教室にはいないと感じた

 

 まず講義を聞いてもらえない講師、講義を真面目に聞きたいのに邪魔をされる学生、そして最も重要な被害者こそ、学士が欲しいだけで入学した学生。彼らは迷惑をかけているので当然ながら善い行いはしていない。しかし彼らの存在こそが大学教育にとって重要な存在で、こうした一団の存在とどう向き合うか、が講義進行の最重要課題である。

 

今は、大学全入時代と言われ大卒というのも珍しくはなくなってきたが、日本の就職時における学歴主義は健在で、大学進学も学士取得により就職で有利に立とうとする動機が強く、学習希望と学士希望の間のズレが発生していて、そこに少子化による学生の質の低下が合わさって前述した悲劇を引き起こしている。

 

企業にとっては4年間時間を潰してくれ、大学は学士志望の人間を多く入学させ集金出来ることでWIN-WINの関係を築いてきたが、この関係はこれからも続くと想定され、受け入れる側のスタンスを変更して対応していく必要がある

 

講義を担当する優秀な研究者のメンタルや負担を考えても、集合形式の講義よりは動画配信のほうが講義を邪魔するという要素を排除できる。日本の大学生は世界の大学生に比べて勉強しないと言われて久しく、それは単純に勉強したくない学生を入学試験で通してしまっているだけで何もおかしなことはない。そうした学生さんを、いかに上手く処すかが問われているのが大学教育だ。

 

講義の進め方を超過した話だが、アカデミック理系分野というのは学士4年修士2年博士3年の9年方式で理学博士を修得する流れで、学部3年間で学士修得の単位数の9割は揃い、学部4年では3年間の成績と志望を考慮した上で研究室配属を行うことが一般的。

 

ですが卒業研究といっても既存分野のまとめ書きのようなものに過ぎず、その意義を問う声も多く、理学部数学科だと卒論を書かないというところもあるそうです。

 

学部卒のみで良いような学生さんを研究室配属させることにも疑義が生じ、外部の研究室へ修士で移籍する人も内部の研究室で1年過ごすのは、どうなのか、という疑義も。そこで提案したいのが学士3年修士3年博士3年のトリプルスリー制度

 

学士資格を望む学生は3年で卒業し研究室配属における人員配置も滞りなく実行されることを可能にし、学士4年を廃するメリットは少なくないと考えます(この方法では大学側と企業の目論見が崩れるので、実行されることはないと思いますが)。このような形はいささかドラスティックに過ぎますが、学習を望む人と学士修得を望む人のゾーニングを遂行することこそこれからの大学教育において重要であると考えます。

 

 

また履修制限を教室のキャパでかけなければならないという問題も動画配信では解決され、この動画をYouTubeなどにupすることで多くの方々に見ていただけるので知の発信としても有意。ただ授業料を払っている人/いない人が平等に講義動画を見られるようになるのはアンフェアな気もするので、部分的に留める可能性は考慮しなければならない。

 

YouTubeなら翻訳機能も兼備されているので、今の翻訳機能では文章が不完全な形で訳されてしまって使い物にならないところも散見されますが、いずれ機能の向上により日本語を母国語としない方にも見ていただけるものになる可能性もある。

 

この動画配信スタイルを全講義(といっても体育のようなものは無理だろうが)で採用することが出来れば時間割という概念を破壊することが可能。国立大学ならば時間割として5曜日5時限の25時限しかなく上級生向け講義、もしくは他分野の講義を聴講しようとすると『カブリ』がでてしまって不可能となるケースがある。

 

しかしながら今ドキの大学は多様な価値観の創出のために他分野講義の聴講を促していて、こうした要請に対する不備を、ストリーミング講義によって再整備することが可能であり、好きな時間に好きな講義を動画で学ぶことを可能にする。

 

人口減少と少子化により学生数、教員数もこれから減少していくことが予想される中で、複数大学での講義動画の共有といったスキームも考えられ、一部大学で教員の数の不足への対応として民間の専門家による講義動画ストリーミングの採用といった義の民営化といった手法も提案される

 

⑵議論系スタイルへの疑義

 

近年の講義の中ではグループワークによる生徒の自主性の喚起、いわゆるアクティブラーニング(以下AL)系講義が流行し、これまで、多くの実施報告があがっていて、様々な問題点も報告されています。僕は、こうしたALには否定的な立場をとっていて、議論系講義の実施もすべきでないと思う。

 

僕はAL自体を否定しているわけではなく、ALの成功には、いくつかの条件が要請され、そうした要請を満たし得るのが多くの共同体では困難であるからこそ否定的であるというスタンス。

 

まずALは通常の座学における担当教官による受動的なスタイルではなく、事前に学習内容を提示したり既存の学習知識を用いて、いくつかのグループに分かれて問題の解決へ向けて議論していくスタイル。この方式は『新しい教育スタイル』のイメージを創出でき複数の教育機関で実施され、今では珍しいものでもなくなってきた。

 

AL系講義の実施報告に多く見られる記述として、予習段階での差と先天的な能力の差によるグルーピングの難しさから想定された到達点に達しないケースが多くみられ有意義な形を創出することが困難であるいったもの。

 

元々成績の良い優秀な学生さんは準備もしっかりとやってくるのに対し、成績の悪い学生さんは準備もしてこないことが多く、そんな両者が組み合わされば、優秀な学生さんは、ずっと成績の悪い学生さんの『お世話』をしながら議論することになり、おのずと議論のベースキャンプ位置の低さから到達点も低く、モチベーションとしても成績の良い学生さんは世話するのに疲れてしまってやる気を失い、成績の悪い学生さんも迷惑をかけていることに対して罪悪感を感じて講義自体を欠席しがちになるケースの発生が考えられる(実際、僕が聴講した反転型講義でも同様の現象が)。

 

大学入試という能力平衡装置があるといっても、入試には下限があっても上限はなく、一定レベル以上ならば誰でも合格してしまい、この凸凹は発生してしまう。ある程度の成績や能力の平衡が担保されないとAL系講義の成果を出すことが難しく正直、運次第となる。

 

また、生徒のパーソナルな部分、特にリーダーシップやコミュ力がないと議論もコントロール出来ず、ここも要請される前提条件なので成功するかどうか微妙。

 

本来ALとは盤石の基礎知識を有している事を前提として導入しないと空転することは目に見えている。前提条件を鑑みるとALの導入は極めて難しく、確かに皆で一つの題材に向かって議論しているのは見栄えは良い、しかし内実としては厳しいものを抱えているのが現状。

 

ALを採用するなら一定の成績、能力面の平衡が担保され、準備もしっかりとこなせる予習能力があり、かつ円滑に議論する能力を全員がテンプレで備えている必要がある、これは極めて厳しい条件であり、やはり議論系を実施するのは基本的に難しい。

 

 よく基礎力の建築段階においてのAL系講義の成功例のようなものも見受けられますが、それは奇跡的なマッチングが発生したか、それとも結果を一部『加工』しているか、どちらかだ。

 

『加工』とは少し響きの悪い表現だが、成功したと説明しているものは、大抵教員の定性的な感想、もしくは評点の分布や何らかの成績に対する定量的表現を用いたものといったところだ。

 

まず学生さんの通期つまり4か月程度の学習成果を正確にはかる定量的基準は存在せず(この点に関しては後に述べる)数字を見栄え良く見せることは容易に出来る。グラフの縮尺を調整したり、評点に関しても試験問題ならば後述するように人脈による有利/不利が発生してしまい、ALによる成功度合いを正確に測ることが困難。

 

確かに、そういった成功例で示されている数字に嘘はないかもしれない。しかし数字とは本当のことを言っていても、本質を言っているとは限らない、何とでも都合の良いように見せるための操作をすることが可能だ。

 

成功例全ての結論を否定したいわけではないが、成績分布の向上を盾に実証しているケースにおいては授業点が客観性をもって採点されてるか、試験問題が過去問と酷似していて人脈要素が強く影響していないか、といった部分を注意深く観察してみないとALが成功しているかは判断できない。

 

 

②試験は実施しない

 

次に成績評価の方法についてですが、定期試験の実施、そしてそこに提出物、出席点を加味して評価を下すと言ったスタンダードな手法は採用しない。成績評価に関しては複数回出すレポートの内容を見て点数を付ける。

 

試験実施にはいくつかの疑義があるので実施しない方が良い。また、極端な事を言うと個人的には成績を付けるという事も出来ればすべきでない。それは正確に評価を下すことが困難だからだ。

 

上で列記したことを詳しく話す。

 

⑶無試験のメリットと高得点獲得の手筋

 

まず試験をする、ということは通期ならば16回ある講義の内、中間、期末で2回使用する、つまり90分授業ならば3時間を試験実施に費やすことになる。この時間を講義時間として使用することが出来れば、より多くの内容を伝えることが出来る。

 

当然ながら試験時間を抑制することは可能だが、そうすると試験で出題できる問題に抑制がかかり、より良い試験問題の作成が困難になる。

 

また、試験に出やすい問題としては、90分程度で解答出来るものという最低限の制約を踏まえて出題できる問題数の限界を考えていくと、発展的問題を出題すると少ない問題数で当該科目の理解度を問え、どうしても発展的大問が半数を占めることが多い。

 

しかし、講義とは大抵の場合、初歩的な基本概念の説明に多くの時間をかけて丁寧に説明しながら試験1週間前、2週間前に試験に出やすい発展的問題の内容に触れるので、どうしても試験に出やすい発展的問題を短期間で修得せざるを得ず、内容の理解よりも、その内容から創作しうる問題を想定し、解法を暗記すると言った手法を選択する学生さんも少なくない。

 

他の講義の試験勉強との兼ね合いを考えても、中々、難しい。そういった事情を鑑みるに学問を深く学んでいく学習よりも試験攻略に特化した学習の方が成績面では有効に働いてしまうのも悲しい現実。

 

試験で高得点を獲得する手段について、正直、大学の試験とは人脈ゲームの様相を呈している。過去問を入手する経路の確保、手に入れた過去問の解答を作成しあってくれる友人の存在。こうした人脈を使って早期に対策を打つことが試験攻略の王手飛車取りであり、学力よりもコミュ力がモノを言うのが大学試験

 

試験問題を毎度回収したとしても漏洩することは少なくなく、問題をこまめに変更しようにも講義内容が不変である以上、出題できる問題にも限りがある。実際僕も回収型試験問題の情報を入手したことがあるし、イタチごっこになってしまう。

 

上記の理由を考えても試験とは、純粋な成績というよりも、如何に有用なチャンネル(以下CH)を有しているか、そうしてCHから得た物資を利用する手法に優れているか、が問われ、過去問と解答さえ得られれば講義に1度も出席しなくとも(講義内でレポート宿題が出る可能性を考慮して講義を受けているCHが必要だが)単位取得、ひどいときは評点で満点を獲得することも十分可能。

 

こうしたことを鑑みると試験の実施による成績決定に対し疑義を抱いてしまうのが事実で、講義時間を増やす為にも実施は見送るのが妥当。ただレポート課題を出したとしてもCHを使って解答を共有したりされるので、どうしたってCH数が成績に直結してしまう。そこで提案されるのが評点による評価を捨てる事。

 

⑷教育成果の絶対的評価基準の不在

 

大学において、講義準備→講義→試験→評点付けといったフローで進めていくのが講義担当教官のベーシックな仕事、つまりは講義とは評点をいかにしてつけるかという帰着へ向けたもの。こうして採点された評点の平均値として算出したものを一定の点数に圧縮し数値化したものをGPA(Gross-Point-Average)といい、この値で生徒の学習における成果を評価し、研究室配属の際の参考値として採用される。

 

試験に関しても、またレポートに関してもCHによって成果が左右され、また、その総合でもあるGPAに関しても純粋な成績評価といえず、講義によっても評価がバラバラで、講義時間の2倍の学外学習時間を1単位とするといた文科省の1単位に対する定義も形骸化しつつあり、容易に単位を獲得できる『楽単』講義がどれか、といった情報をいかに正確につかんでいるかが重要になる人脈ゲームの様相を呈している。

 

GPAを上げたいならば、楽単講義を受けて、必修、準必修講義において過去問/解答を入手/製作することが重要で、むしろ向学心から上級生向けの講義を受ける方が、どんどん下がってしまう可能性もある。

 

現状の大学においては、生徒をいかに留年させずにカリキュラム通り卒業させるか、が重要視され、『下駄をはかせる』ことが常態化しつつあり、今の大学の成績評価を考えると、いかに生徒を滞りなく卒業にまで至らせるかといった大学のベルトコンベアー化が進行していると言える。

 

こうしたベルトコンベアー化に対して、どうやって落第者を抑制しようか、と頭を悩ませながら多彩な『下駄のはかせ方』を考案し続けて、結局のところ、複数のレポート、出席点、試験といった要素を増やし、生徒の成績をにらみながら傾斜を変更し続けて落第者を抑制するという謎の作業に優秀な研究者が駆り出されるのが、果たして有意義なのか。

 

結局、教育における最適スキームの模索が延々と続くのは教育における成果の定量的評価の絶対的基準が存在しない事にあるので、教育企画を採用して得られた結果が果たして成功しているのかどうかを議論することが難しく、モデルの有用性の議論は困難を極め、また学生の成績評価においても正確な指標の採用が困難であり、正確に学生の学習成果を判断することが、そもそも出来ないといった事態になると考えられる。

 

いっそ成績評価自体は捨てよう、とドラスティックな結論に至り、GPAの利用自体を投げ捨て、単位の合否のみを決定すればよいのではないか。

 

いささか過激な結論に至ってしまい、全文を読むと既存の教育体系の全破壊を肯定するような文章の様相を呈してきたが笑、僕は何も、教育システムの完全破壊を実行したいわけではない。しかし現在の大学教育を3年間受けてきた身としては優秀な研究者が疲弊していく様を見るには忍びなく、また国が補助金やらなんやらで助けてくれる論に関しても、正直期待できない。

 

日本とは良くも悪くも民主国家であって多数こそ正義の国なので国民生活に対して直接的に影響を与えない事象に関しては無関心で、ポスドク問題に関しても国民的に大きな関心事になることも想定しづらいために国家が『正しい』救済策を実施するとは考え難く状況は悪化の一途をたどることが想定される。

 

多くの国民にとって科研費の削減といったことは他人事に過ぎず、理数系研究者についても実利的に役立つものへの寄与が具体的に分かりやすくなって初めて多くの人は興味を示すため、国も動くとは思えない。

 

そもそも『今だけ、自分だけ』が加速していくグローバル社会において、誰かが助けてくれるはずだといった考えを持つのは危険。現状が好転しないという想定の下で、いかに無理のない範囲で現状に対して適切な対応をしていくか、が問われている。

 

 

③最後に

 

これまで述べたことは現在の教育スキームに対し個人的に思うところを付し、その中で、どのように処すのが適切かを自分なりに考えてまとめた次第である。

 

ただ、やはり学習に積極的でない学生さんと積極的な学生さんのゾーニング、動画配信といった手法は現実的に実行すべきだ。試験に関しては、やはり講義時間の確保と人脈ゲーの入り込む余地をミニマムにすべく複数のレポートを課すなどして対応するべき。まぁ流石に成績評価を合否だけにしてGPAを捨てるのは、やりすぎだと思うが笑。

 

教育とは効果を評価できる絶対的基準が存在しないため正解がなく模索が永遠と続いていく。ただその過程において内実が良く分からない横文字の見栄えの良い教育モデルに飛びついては混迷を極める現在の状況を憂いている一人としては、理系分野において優秀な研究者の教育的負担軽減のために期待できない国の支援になるべく頼らずに柔軟な思想で現状に対応していくという方向性で現在の教育的環境が良化されて行って欲しいと強く願っている次第だ。

 

未来の教育環境がより良いものであることを祈りながら記事を結ぶ。