牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

大学生への推薦図書/映像

よく大学生が読むべき書籍100といった内容の記事をよく目にする、書籍だけでなく映像も入れるた推薦の不在に気づいたので、一度まとめておこうと思う。

 

 

攻殻機動隊SAC

 

 

初めにオススメしたいのは攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX。名前は聞いたことあるけども取っつきにくそう、といった印象があろうかと思う。攻殻機動隊とは義手、義足といった義体技術が進んだ近未来における公安警察の特殊部隊を中心としたSF作品

 

元々は士郎正宗の漫画作品として描かれ、その後に押井守によってアニメ映画化され、そして攻殻機動隊SACとしてTVアニメ化された、その後に攻殻機動隊ARISEとしてリビルド、といった歴史を持つ人気アニメ作品。

 

その中でもSACは最高傑作との呼び声も高い名作で、人間と機械の境界線、国家治安機関としてあるべき姿、組織論、移民政策の是非といった様々な問題が提起され、下手な新書を買うよりも多くの考えや疑問を与えてくれる作品である。

 

 

技術革新が提起する課題

 

攻殻機動隊は前述した通り義体化技術が進んだ世界を描く、具体的には義体技術が向上し電脳と呼ばれるマイクロマシン技術が発明されネットに接続することを可能にし、また義体化により脳と神経系以外を機械化したサイボーグとして生きることが可能になった世界が舞台(また2度の核戦争を経て今とは異なる世界情勢が展開されてもいます、この事は詳述すると長くなるので割愛)。

 

そんな技術開発が進んだ世界で電脳戦を専門とする特殊組織公安9課を中心に展開される。電脳世界において義体化技術と高性能サイボーグ技術の発展により人間とロボット(具体的にはAI)の境目はどこにあるのか、その違いについて本作では『ゴースト』と呼ばれる概念で区別される。9課が保有するAIロボットにして多脚戦車であるタチコマが提起する課題も中々興味深い。

 

タチコマは高い知性を有し、自律し、またタチコマ同士で情報を共有するために並列したりする高性能AIロボットでありながら実際の任務でも戦闘に参加するなど補助機械に留まらない活躍を見せる屈指の人気キャラ。

 

物語が進むにつれて自身は何故生まれたのかといった実存主義に至り草薙は任務での不確実性を向上させる因子を内包しているとの恐れから一時的に任務から外します。しかし仲間のために自己犠牲を払って9課を2度救う。この帰結は涙を誘う胸アツ展開なので是非見て欲しい。

 

機械の発達という課題においては近年ではAI技術と人間の共存の課題も提起されている、機械が反乱を起こし人間を破滅させるのではないか、といった極端な思想に代表されるように、我々は機械を敵視しすぎるてらいがあります、また僕自身AI論法ともいうべき主張をされる方への危険を感じる。

 

『それ、AIで将来的に出来ます』といって煽ったりする方のほうが議論になりやすくテレビ受けするためにマスコミではよくみられる論法だが、僕はそうは思わない。機械は人間の仕事を奪うよりも向上させる方に寄与するはず。将棋ソフトポナンザが発展しプロ棋士を凌駕する実力を持っていてもポナンザ同士の対戦に熱狂はない、研究対象の道具としての採用がベターという立ち位置に落ちついている。

 

AI論法において将来出来るというのは保障もなく、お笑いもAIで出来るとのたまう人もいますが、おそらくネタ作りの補助といった形での採用に留まるはず。機械に対する反発を招くAI論法は危険だと思います。

 

ホーキング博士の言うロボットの反乱による人間の支配の終焉、については『ターミネター』が分かりやすい。核戦争を機械が誘発し人間と機械の戦争が始まるといったことに対しアンサー作品とも呼べる作品が存在する、『マトリックス』。マトリックスでは人間は機械に支配されるものの人間界から救世主が現われ機械との戦争に打ち勝つと帰結する。実はマトリックスに大きな影響を与えたのが攻殻機動隊だ。

 

マトリックスシリーズの生みの親、ウジャウスキー兄弟は攻殻の影響を明言していて、その影響は支配の定義に現れている。『サピエンス全史』にも書かれているが『人間が支配者となれたのは人間こそが虚構を生み出す能力に長けているから』と主張する。

 

マトリックスにおいて人間は機械によって作り出された映像を見せられていて実は絶滅寸前であるという設定が採用され、これは虚構の創造こそが支配と同値であるという思想を持っていると言える。機械が人類を虚構で支配する能力は人類間の家族、愛、共同体といった虚構の前には勝てないというのがマトリックスの最大の主張である。

 

この支配を巡る論争も攻殻機動隊内では提起され、SACにおいても虚構世界に支配された人間の話が複数登場し、電脳世界という虚構による支配といったガジェットは全世界のクリエイターに影響を与えている。

 

 

SACという現象

 

本作の題名スタンドアローンコンプレックスとは独立した個に影響を受けた人々や物事がまるで影響を与えた個の意思とは無関係に絶対的な個による統一的な事象のように複合体として伝播し続ける事、ややこしいですよね笑。

 

本作においては笑い男事件、個別の11人事件という2つの事件を軸にシーズン1、シーズン2が構成される。両事件に共通するのがSACという思想。

 

笑い男事件は電脳世界の不治の病である電脳硬化症の治療薬を巡る関係者の不正行為を白日の下にさらそうとした犯人であるスマイルマークで自身の顔を隠すようにハッキングしながらテレビの天気予報中に関係者の証言を迫った笑い男に追随するように企業脅迫が行われるといった笑い男本人の犯行にかこつける犯罪が起こる。

 

個別の11人事件でも全く関係ない人間同士がある特定の目的のために相互作用を起こしながら犯行の波が伝播していくといった現象が発生する。

 

これは並列化する時代が引き起こす暴力だ。ネット炎上といったものも全てではないですが一部はSACと言えなくもなく、全く関係のない独立した個がお互いが見知らぬうちに相互作用を引き起こし、それに連なって情報を並列化した人々が現象を大きくしていくといったことは拡散し大きなうねりを起こす現代に潜む新たな暴力の一種だ。

 

このように攻殻機動隊は前述した問題以外にも様々な考えさせられることが多数あるので是非ご覧あれ。

 

 

 

セイバーメトリクスの落とし穴(お股ニキ著 光文社新書)

 

次にオススメしたいのはツイッター界でも随一の野球クラスタとして知られるお股ニキさんが書かれた新書、通称お股本。現代のデータ主義が進んだ世界で起こっている事象を考える良い書籍だ。

 

 

合理主義が殺す娯楽性

 

野球に詳しくない自分は読めるのか、心配、と思ってらっしゃる方でもイチロー選手は御存じだろう。日本野球界が生んだ最高の俊足巧打の外野手であり2019年に引退された名選手。そのイチロー選手は引退会見で『今の野球は考えることをしなくなった』とコメントを出した。これはどういうことなのか?

 

おそらくですがデータ分析が発達した今は選手自身で判断する前に事前にどういった挙動をすることが成功確率が高いかをアナリストから教示されてプレーしていることを指していると思われる。

 

本番で慌てないように事前に本番を想定し考えられる展開の予想と対応を事前に考えることによって本番で考える事を減らすのは合理主義のアメリカらしい考え。しかしながら、現代野球においてはいわゆる動くボールとよばれる半速球であるツーシームカットボールの多投で芯を外しにいく投球術に対応するためにフライボールレボリューションによるフライを打ちにかかる打撃術が登場する。

 

またそういったダイナミズムに対応すべく落ちるカットボール通称スラットや早く激しく変化する変化球と豪速球を組み合わせる投球術が支配的とされ、今のメジャーリーグは力と力のぶつかりあう大味の野球が展開されている。

 

そして成功例は模倣され『並列化』されるのが技術が発展した合理主義のアメリカであり、投手は100マイル近い速球と万能変化球スラットを兼備した本格派で溢れ、野手も打ち負けないフィジカルを持った力自慢が幅を利かす。

 

日本人が好きな思想に『柔よく剛を制す』があり、まさにイチロー選手は大柄のメジャーリーガーを相手に小柄な体格でありながら技術と柔らかい体で世界最高リーグであるメジャーリーグで大活躍した、この事象は日本人にとってのカタルシスにバッチリとハマリ、野球ファンに限らず多くの日本人を楽しませた。

 

今の野球は支配的ピッチングが模倣され、柔が出る幕もなく剛が制す時代となっており、極端な守備シフトを始めグラウンドに出るまでに準備してきた事を披露しているとはいえ一種の思考停止状態になっているように見える。

 

そして技術の向上と支配的挙動の発明、改良、進化を日進月歩で進めるメジャー野球界いおいて悲劇が起こる。アストロズのサイン盗み事件。

 

野球において投球をする前に投げる球の種類をサインで伝え実行に移す過程が存在し、そのサインをホーム球場に設置されたカメラで撮影し分析し解析するソフトを用いて瞬時に味方打者に伝えたら、投げられる球種が判明した中でのトッププロの打撃はどうなるか、

 

これを実行に移したのがアストロズ。おそらく野球を知らない方だと、何が問題なんだろうと思う方もいるだろう。実際、アストロズワールドシリーズでサイン盗みにより滅多打ちにされたダルビッシュ選手本人も『彼らは悪気があったわけでなく先鋭的技術の採用として実行したのではないか』と一部理解を示す発言をしている。

 

野球界には不文律がいくつか存在し、その一つに投手捕手間のサインを盗む行為は御法度というのがある。しかし明確にルールブックに記載がなく、合理主義が発展することで相手をだますこととルール違反の境界が曖昧になった中で起こった悲劇とも言える。アストロズにとってホーム球場の設置されたカメラによる撮影やサインの解析技術は違反というよりも発達した技術の一種と捉えていたのだろう、これは難しい。

 

相手を上回ろうとする志向と支配的挙動の模倣と拡散を繰り返す合理主義による野球が、どうなるかわからないという不確実性にも近い娯楽性を叩き潰してしまうのは野球界以外でもサッカー界でも見られることだ。

 

サッカー界でもデータ解析技術は極めて発展し戦術戦略における準備の量と質は年々向上し、多くのチームが不確定要素の排除のための合理的応手開発と決定を行う技術を有している。

 

そして、このように不確実性を排除する準備の徹底と支配的スタイルの模倣が続くと、どうなるかというと質的優位性がモノを言うようになる。

 

サッカーで言えばメッシ、ロナウドのチームが支配的だった10年代の欧州サッカーが代表的。野球においても同種の対決となるために出し抜くためには元々の才能で差がついてしまうのが現状。

 

この方向性が正しいのか、それは議論の分かれるところで、様々な議論や意見があるのが普通だ。こうした娯楽性と合理性のあり方を含め、本書には様々な野球界での技術や思想が掲載されているので、野球に興味のある方は勿論、無い方にも読んでもらいたい。

 

 

 

③桐島部活やめるってよ(朝井リョウ著 集英社)

 

 

この書籍は映画化もされた有名作品で、タイトルのキャッチーさも相まって多くの方が聞いた事があるだろう。まず桐島なる人物が登場せずカタルシスが明確にあるわけでもなく、イケてない映画研究部の部員たちの哀れな扱われ方を見て悲しくなり、映像化されると余計に難解な印象が強くなったのではないか。

 

これは村上春樹の『ノルウェイの森』でも見えた現象なのだが、難解な文芸作品は表現できる次元を上げると余計に難解になる。ではそんな『桐島』について語る。

 

 

実存主義とは?

 

いきなり実存主義と言われても難解だろう、例えばペンとは書くために作られた、消しゴムはペンで書いた文字を消す為に作られた、では人間は何故作られたのか、この問いについて考えることが既に実存主義

 

ドストエフスキー罪と罰に代表される作品が提起し、ニーチェ、ハイテガー、ヤスパースキルケゴールといった思想家が発展させた。この桐島とは王道路線であるスクールカースト最下層のダサイ男の子たちによるイケてる奴らへ一発かましてやるぜ、的なカタルシスは確かにない。しかし僕は、実存主義的立場から彼らは一矢報いたというのが本作の最大のカタルシスではないかと考える。

 

この作品の最大の特徴はバレー部のリベロを務めるスクールカーストの頂点に君臨する桐島と呼ばれる男が部活を辞めて顔を出さなくなってから数々の学生たちに影響が徐々に及んでいく様を描いていて、当の桐島は登場しないことは前述した通り。この作品は桐島ロス現象ともいうべき桐島が居ない事で次々に起こる波及を描く作品。

 

 本作で最も桐島ロスの影響を受けない人物である映画部員前田、そして桐島の親友にして空虚な人生を送る菊池の対話というクライマックスへと向けて徐々に壊れていく様を描く、よって作品自体は地味で映画化されたものもアカデミー賞受賞作なのにもかかわらず金銭回収が困難だった。しかしながら小説、映画どちらにしても学園生活の描写はとてもリアルで素晴らしい。

 

 まず桐島という校内における絶対的な存在の喪失において、神格化されている桐島の到来を信じ続けるというのは救世主メシアの到来を信じ続けるユダヤ教徒のようだ、桐島の不在について悩み続けるという様は僕の目には、ある作品との相似性が思い浮かぶ。それは遠藤周作『沈黙』。

 

『沈黙』とは、江戸幕府において禁教とされていたキリスト教を信仰する宣教師が捕縛され信仰を捨てることを要求され、従わなかったことで拷問を受け続けながらも神はきっと助けて下さる、と信じるも、弾圧は激しさを増していき、なぜ神は助けて下さらないのか、本当は神はいないのではないのか、何故神は、主は『沈黙』するのか、と問う作品だ。

 

神の沈黙と向き合い続ける中で信仰の意味を問うのがテーマであり、信仰とは神の存在を絶対視し思考を停止させるのでなく疑念を持ち続け質問を投げ続ける事であると僕自身は感じ取った。

 

沈黙の最後に司祭は棄教を意味する踏み絵を行うが、そこで沈黙していた神の声を聞く。この声を巡る議論は様々で、一度読んでから議論したほうが良いので、ここでは付すのは辞める。桐島の沈黙の中で緩やかに人間関係や意識が変化していく中で最後の桐島のセリフが明記されていない『桐島』の声について色々と考えてしまう。

 

桐島という神の不在による混乱はニーチェの有名な発言『神は死んだ』を想起させる。ニーチェは前述したように実存主義哲学の発展に寄与した人物で、永劫回帰と呼ばれる無意味な一日の繰り返しこそが人生だ、という考えも有名。

 

ツェラストラで展開された神は死んだ発言については、絶対的な視点の放棄を促す目的があり、神を超越した超人を目指すべしと主張した。絶対的存在の喪失による共同体の混乱は昭和天皇を巡る自粛ムードを始めてとして日本社会でも経験していることだ。

 

『桐島』内では菊池宏樹という人物が実存主義へと至る様がメインルートで、彼は彼女もいてクラスメイトの何人かが羨望する性交体験を経て、友人にも囲まれ神様桐島の親友という状況であるにも関わらず虚無を強く感じながら生きる目的を見い出せず、いつかは消失する有限の寿命の使い道に対して悩み、そして桐島の不在による不安定さにより疑念を強く持ち、自身の周囲にあるものすべてが無意味であり、全てが虚構でしかないのではないか、と虚無主義に至る。

 

 

菊池宏樹は、そんな虚無が支配する虚構の世界で、楽しく生きている映画部員の前田に『何故、映画を撮るのか』と問いかけ前田は『好きだから』と返す。それを受け菊池が持ち合わせなかった虚構世界における自身の生きる意味を持つことに対して熱中出来るものを持った前田に対して一種の敗北を感じる、

 

 

このシーンと相似したものとして『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』がある。この作品はオウム真理教を下敷きとした作品でノスタルジアという暴力を描いた名作。ノスタルジアを感じさせる良かった過去の再現を実行した世界へと移行するためにガスを散布する(オウムのサリンガスによる現世のリセットのメタファー)ことを阻止しようと奮闘するしんのすけに対して『何故そこまでして、こんな世界を守ろうとするのか現実の未来は醜いのに』と問う、

 

しんのすけは答える、『家族と喧嘩しても共に生きたい、オトナになりたいから、綺麗なお姉さんと付き合いたいから』と答えるのです。これは『桐島』の最後の対話とよく似た構図。

 

前田としんのすけの回答こそが実存主義への一つの解答と言える。なんの意味もない虚構世界において熱中出来る何か、守りたいと思える何かを見つけられるかこそがテーマと言えるのではないか、と語りかけられているように感じる。

 

そして実存主義が提起する『何故人間は生まれるのか』について僕なりの解答を付す。それは『誰かの救世主になるため』。メシアのように万人を導くのではなく、世の為、人の為というと説教臭いですが誰かにとっての特別な救世主になるべく研鑽を積み、困っている人がいれば助け、無意味な虚無な虚構の世界において必要としてくれる人を救えるように生きていくことが生きる意味と信じている。

 

そんな実存主義を巡る議論を提起するのが本作。是非読んで映画版も見て欲しい。