牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

β世界線上の渚カヲル(エヴァ評論)

 

 

①はじめに

 

エヴァンゲリオン(以下エヴァ)と聞いてアニメを見ない方からすると理解するのが難解で聞いたことはあるけれど見たこともないという方が多数で熱狂的ファンの存在もあって近寄りがたいオーラを放つ作品だろう。エヴァについて述べると書くと敬遠する人が少なくない。今回はそんな方のためのエヴァ評論をするとする。

 

エヴァ評というと熱心なファンが作成したものがたくさん存在することも加味し僕のエヴァとの出会いから話し始めエヴァの『筋』の解析を中心に述べる。

 

 

②Qという悲劇

 

 僕は小学生高学年になると所謂『お受験』に追われ友人と遊ぶ時間も殆どなく小学生時代は勉強の記憶が海馬の多くを支配していて、そんな努力もあってか県内ナンバー2の学校に無事入学出来、小学生時代の反動からか娯楽に時間を注ぎ始めることになり、一番ハマったのは昔の名作映画の観賞。

 

そんな折に出会ったのが市川崑監督の犬神家の一族。有名作品なのでご存じの方も少なくないと思うが、犬神製薬を築き上げたおじいさんが死去、その財産を巡る骨肉の争いの中で猟奇的な殺人が発生し名探偵である金田一耕助が出動する、というお話。

 

この作品はまず撮り方が抜群に上手く川に倒立する死体に代表される印象的なカットが複数あり、日本映画は無駄な間が多くつまらない、といった僕の先入観を破壊する作品だった。

 

カッティングの速さと無駄なウェットな描写の徹底排除を中心とした市川演出に魅せられ映画鑑賞が趣味になったのがこの頃。

 

そんな市川作品に影響を受けた人間の中で最も僕が興味を抱いたのが庵野秀明エヴァンゲリオンという作品は存じていたものの一言さんお断りモノと敬遠していたが2012年に遂にエヴァを見てみようと思い、テレビシリーズ(旧エヴァ)を鑑賞し、行間のある筋とスタイリッシュな画の応酬に圧倒されながらも市川の匂いに僕は夢中になっていた。

 

その年に新劇場版として新作が公開されると聞き運命的なものを感じた僕は冬に劇場へ足を運び新劇場版エヴァンゲリオンQを見る。しかしそこで見たものは何のカタルシスもない破壊的で感情の全てが抜き取られるような無力感を抱いたまま帰路についたのを覚えている。

 

エヴァQを巡る感想も罵声の嵐で製作した庵野も精神を病み製作から離れるといった事態になり、僕も含め多くのエヴァファンが楽しみにしていた中で起きたQの悲劇、この悲劇が何故起きたのか、どうすれば良かったのか、そういったことを述べる前にエヴァのこれまでの歴史を振り返り僕自身の分析を付す。

 

 

 

新世紀エヴァンゲリオン

 

新世紀エヴァンゲリオンとは一言で言うと庵野秀明によって氏が心奪われた数々の映像作品や漫画といった既存の作品を解体し再構築することで作り出された脱構築モザイク作品で、1995年10月からテレビ東京で2クールにわたって放送され、続編として作られた『シト新生』『Air/まごころを君に』を含めた一連のシリーズを旧劇と呼称。

 

その後のリビルド劇場版を新劇と呼称。テレビシリーズを旧劇と呼ばない用法もあるが僕は一つのシリーズ群として旧劇と呼称する。この歴史を見ても分かるようにストーリーも難解なら歴史も複雑で手をかけにくいのも確か笑。

 

庵野監督はオリジナルを生み出すより前述したように既存の作品から引用された小ネタをおびただしいほどに採用しエヴァ以外の知識は勿論かなりの造詣がないと鑑賞しても面白さが分からないため解説や小ネタ探しを始めとし議論が熱狂、そのことがかえって一言さんお断りの空気を創出してしまうのかもしれない。

 

エヴァとはセカンドインパクトという大災害に見舞われ通常兵器による迎撃が困難な使徒が襲来する苛酷な状況を生きる文明が使徒のコピーを人間が操作できるように設計された人型汎用決戦兵器エヴァンゲリオンにより迎撃を行うべくパイロットとして碇シンジに代表されるチルドレンと呼ばれる中学生が駆り出されていく物語。

 

本作は庵野秀明に影響を与えた作家である岡本喜八市川崑実相寺昭雄の作品からのインスパイアを感じ、エヴァの基本構造に着目するとシンジの父親であり特務機関NERV司令官ゲンドウを中心としオトナによる人類の祖先であるリリスの捕縛と神の力を得るためアダムの復元を試みたためにセカンドインパクトを引き起こすという罪に対し子供たちがエヴァに乗り込み使徒と命を懸けて戦うという罰を背負うスキームが採用

 

これは前述した『犬神家の一族』と相似。犬神家の一族とは戦争の勃発に伴い日本軍の支援によって成り上がった犬神製薬の創業者である犬神佐兵衛が横暴に色欲に身を任せた末に不義の子も含めた5人の子供が惨殺されていくという罰を受けるといった物語で、主題を与えるとすれば『暴走する父権という罪を背負う罪なき子供達の罰』

 

シンジと同年齢パイロット綾波レイ碇シンジの母親、碇ユイのクローンであることは有名な事実。シンジはレイに惹かれゲンドウも妻の代替レイに異常な執着を見せる、この構造は源氏物語』における藤壺という妻(母)の生まれ変わりのごとき存在を巡る桐壺帝と光源氏の関係に似ていると言える。

 

この後の旧劇場版の苛烈な戦闘は岡本喜八を彷彿とさせ、タイポグラフィーは市川の『犬神家の一族』が採用、使徒という人類が太刀打ちできない敵に対し同等の戦力で対抗する手法も実相寺のウルトラマンに似ており、第1話の初めてシンジがエヴァに乗り込むシークエンスもガンダム1話のオマージュ、人間と使徒の二項対立物語はデビルマンの構造(エヴァが旧劇、新劇で上手く行かないのはデビルマン構造の帰結をインストール不全にある)と言える。

 

数多のバックグラウンドを前提とした本作はアニメ史に名を残し、世紀末に日本人が病んでいた状況を象徴する作品であり君と僕のローカルなセカイと皆と僕のユニバーサルな世界の符合というセカイ系として昇華されていく。次に70年代のヤマト、80年代のガンダム、90年代のエヴァと並び称される伝説的未完作品はなぜ閉じることに失敗するのか見ていこう。

 

 

④オの終わりヲの始まり

 

 

エヴァ庵野秀明脱構築アニメで、碇シンジ惣流・アスカ・ラングレー綾波レイといった中学生の間で繰り広げられるローカルな青春群像劇と地球の平和を守るためにエヴァに乗り込み使徒迎撃を行うというユニバーサルなレイヤーを採用し市川崑のウェット排除を中心としたクール(冷めていてカッコいいという2重の意味で)な演出に実相寺昭雄の斬新なカットや岡本喜八の苛烈な戦闘シーン(使徒エヴァ初号機が食らうシーンに代表されると思われる)をリミックス。

 

初期フェーズにおいて碇ゲンドウの真の目的は使徒迎撃になく使徒を迎撃することでエヴァの能力を向上させ感受性豊かな碇シンジの覚醒を促し人類補完計画の発動を目指すゼーレに仕えていると明かされる。

 

 

ちなみにゲンドウはネルフ、ゼーレ両方を踏み台としか見ておらず真の目的は自身が愛してやまずエヴァンゲリオン製造計画の中で魂を取り込まれた妻ユイをよみがえらせることにあることも示唆される。

 

 

青春ロボット活劇とセカイ系、また様々な要素を抽出し構成した新世紀エヴァンゲリオンは瞬く間に人気を獲得し90年代を代表するアニメとしての地位を固め、話が進むにつれて様々な思惑が交錯しシンジも父親への承認欲求のため戦い傷つき多くの仲間を失い打ちひしがれるところに現れるのがエヴァ屈指の人気キャラ、渚カヲル

 

 

人間の肉体を有した使徒カヲルは憔悴するシンジに好感を示し、シンジにとってもカヲルに強く惹かれていく。僕はカヲル以後のスキーム構築が上手く行かないことが今まで続くエヴァのノンカタルシスエンド不可避問題を引き起こすと考えている。

 

 

カヲルは人間と使徒のハーフで、使徒と人間の2項対立物語を2項合一へと移行させるデビルマンの手法を導入出来なかったことに問題がある。

 

デビルマンは人間の見た目をしながらも悪魔に変身する種族が顕在化し悪魔狩りが過熱し人間同士の戦争にまで発展するも、悪魔と人間は同一の種族であり全ての人間が悪魔に変身可能であることが明かされても過熱した悪魔狩りの民意は暴走してしまう2項対立物語の金字塔と呼べる名作。

 

このスタイルは汎用性のある模型なので多くの作品に適用され、進撃の巨人もそのひとつで巨人と人間の対立は巨人になり得る人間をトリガーの巨人とは人間そのものである事実の判明と虐げられていた側は迫害していた側であったという逆転フェーズ導入により巨人駆逐の大義が揺れるという内容。

 

 

カヲルはシンジと戦い殺害される絶望がシンジに更なる大きな絶望を与え、エヴァは謎の心理描写が多用され筋の鈍化(そもそもシンジが友人を瀕死に追いやるシークエンスは鈴原トウジ戦で消化済みなため必要性に疑義)に加え画の力も衰退し漆黒の様相を呈し有名なラストであるシンジの承認欲求獲得で終幕。

 

この後の旧劇場版もサードインパクトの発動を阻止できず敗北した世界で打ちひしがれながら地平を歩く絶望的帰結を付加したのみ。その後に作られたのが新劇、新世紀ヱヴァンゲリヲン

 

 

 

⑤エンタメ路線としての新劇

 

旧劇の評価としてカヲル以前の熱狂とカヲル以後のノンカタルシスエンドへの不満の両立が客観的な評価。

 

皆が満足する形で閉じ、庵野にとって自身主宰のアニメスタジオであるスタジオカラーを軌道に乗せるためにリビルドを決断し旧劇の難解さを一部解消した明朗ロボット活劇ものとして新劇場版製作する。

 

重要な変更、碇ユイの旧姓が綾波となり。このことで綾波(レイ/ユイ)を巡る碇(シンジ/ゲンドウ)の戦いという対比関係が鮮明になっている。この変更からも分かることは新劇場版はエンタメ路線を強化し旧劇のような悲劇を防ぐべく分かりやすく対比を用いたりシンジの成長を軸とする分かりやすさを重視した物語に徹し、また登場人物をミニマムにするため劇場版における裏主人公も1人に制限する配慮もあった。

 

新劇第1作となる『新世紀ヱヴァンゲリヲン序』は序盤の強敵であるラミエルという使徒を倒すため大量の電力を要すポジトロンスナイパーライフルの使用が提言され計画停電による電力供給を受け迎撃するヤシマ作戦を描き、裏主人公として綾波レイを採用しエヴァに乗り戦う意味とシンジの成長を中心にテンポの良いエンタメ作品

 

 

⑥相克するヲとオ

 

 

新劇場版第2作『ヱヴァンゲリヲン破』は新劇エンタメ路線の集大成でありながらも前作が旧劇のリビルドであったのに対し新劇のオリジナルキャラや展開が用意され、新劇の時間軸に対する重要な内容が盛り込まれた。

 

破の裏主人公は式波アスカラングレーで最強の使徒との激戦の中で旧劇にあった名シーンやファンが愛する一連の流れを再現した脱構築作品を脱構築

 

シンジの初号機パイロットとしての決意、綾波を守るためにユニバーサルを捨てるセカイ系としての一つの到達点を見せる(新海誠の『天気の子』に近い帰結で、『君の名は』は君を忘れる代わりに世界を救済する物語に対して『天気の子』では君を守るために世界を捨てる物語)。

 

注目すべきは渚カヲル登場のラストシーンでの一言。『さぁ、約束の時だ、碇シンジ君、今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ』と言う。今度こそという言葉には新劇場版は旧劇場版の世界線を前提としたストーリーという非常に重要な仮説が成り立つ。

 

新劇は旧劇の世界線とつながりループする世界を描いている。旧劇では失敗した人と使徒の間の存在としての二項合一形成装置カヲルが挿入され、シンジ覚醒によるインパクトを防ぎ破は終幕。そして第3作へ。

 

 

 

⑦僕が考える理想のQ

 

 

序、破を通じ作り上げてきたエンタメ路線の続編Qは大きな期待と不安を抱いて公開され僕自身も公開日に映画館で鑑賞。Qは端的に言えば壊れた作品で新劇エンタメ路線は完全に放棄されシンジは破の際のインパクト未遂の被疑者として周囲から徹底的に痛罵されているところに優しくしてくれたカヲルの全部を帳消しにする計画に乗るもかえって事態を悪化させ最悪の結末を得る旧劇の惨劇を上回る胸糞悪さが支配する暗黒作品となった。

 

 

僕が考えるQの別解を。

 

庵野は前述したように脱構築作家としていくつかの映像作品からの引用によりエヴァを構築する。序における大人の罪を背負う子供達という『犬神家の一族』引用、そして苛烈な戦争で傷つく人々の描写が多い破は『沖縄決戦』。

 

Qはどの映画を引用すべきか。僕は『日本のいちばん長い日』と考える。『日本のいちばん長い日』は日本がポツダム宣言を受諾し降伏するまでの政争を描いた名作で、ここからの引用を中心に作り上げるべき。

 

 

理想のQは碇ゲンドウを中心とした大人たちによるエヴァを用いた使徒迎撃計画の反省と組織内の力学闘争がふさわしい、

 

このなかでゲンドウはシンジ、レイ、アスカの3人が瀕死に近しい負傷を追わざるを得なかった責任と自らの計画である、ゼーレのスパイとしてネルフ指揮官に就任し、使徒迎撃を狂言としてシンジのレイへの思いを利用し、サードインパクトを引き起こし人類補完計画を発動させアダム、リリスの力を手に神の所業ともいえる喪失したユイを蘇生するため払った犠牲を三人のチルドレンに背負わせたことに父親として向き合う中で責任をとるのかユイのために計画を再考し実行へと向かうのかに悩み、

 

ユイへの思いから補完計画発動へと向かうものの終幕においてドグマに幽閉された初号機の中でシンジが目を覚まし最終作へと続く。

 

 

庵野が最も尊敬する映像作家である岡本喜八の日本のいちばん長い日のテイストを強めた会議室における早いテンポでの会話劇を中心に沖縄決戦のような旧劇場版で目指した苛烈な戦争シーンを描く、このような映画は近年では売れないと考える人も多いだろうがこの 別解が正解であったということを証明する作品が2016年に公開された、

 

監督は庵野秀明、作品名は「シンゴジラ

 

 

 

⑧Qの別解としてのシンゴジラ

 

シンゴジラは同年に公開された「君の名は」の興行成績の半分にも満たず影の薄い作品ですが僕が知る限り21世紀に放映された邦画のなかで少なく見積もって3指に入る作品、そう考える理由を付そう。

 

 

邦画の現状は厳しく、幹を担う作品、国民的作品の枯渇し、世界で評価される枝葉の非娯楽的作品は生まれても、庵野の師匠格の宮崎駿引退後は国民的作品など誕生する気配さえなく、芸能プロダクションの力学支配による役者の能力低下、無駄に時間をかけたタメを要求することが演出とでも思っているスタッフに代表される映画屋の質の低下に加え人口の減少と娯楽の多様化による興行成績の悪化は深刻な国民的映画作品の誕生の阻害因子として重くのしかかるのが現実。

 

 

役者の能力を重視しアイドル俳優を排除し子供向けの要素などみじんもなく、早いカット割りとオタク的な演出を盛り込みスタッフの融和などを無視し強引に現場において自らの思想哲学の具現化に努めた作品が80億の興行収入を獲得することなどだれが想像できたか、シンゴジラが成し遂げた偉業だ。

 

 

次に内容について複数の視点から語っていく。まずゴジラ最新作として、ゴジラとは3つのNであると僕は考える。

 

 

まずニュートラル、人間の自らの文明を豊かにする名目で核開発を進め、そのゴミを廃棄したゆえに生まれたのがゴジラであり人間の味方でなければ敵でもない立場。

 

 

洋画ゴジラ最新作はギャレスエドワードによって作られたが、そこでの立場は見えざる手といういわば自然界不均衡修正装置で人間の味方(間接的にではあるが)。ではなぜ中立である必要があるのか、それは人間文明への絶対保守性への皮肉こそが怪獣作品における重要な主張だから。

 

人間は自らの文明にとって不都合な存在ならば例え自らに過失があったとしても排除するという理念のもとに、生存し歩行しているだけのゴジラが社会を脅かす存在として殺害しようとする身勝手さの中でゴジラは咆哮を天に放つ、ここにこそゴジラの魅力がある。

 

 

第二のNはニュークリアー、ゴジラ原子力技術の副産物である核廃棄物を捕食し成長した言わば暴走する原子力発電所であり(シンゴジラにおいては福島第一原発をメタファーしていた)この部分が欠落すると陳腐な怪獣映画に成り下がる。

 

 

最後のNはネオつまり新しさ、正確に言うならば、その時点で日本人が最も恐れている事のメタファーであること。第一作ゴジラは米軍空襲と第5福竜丸の事故であり、シンゴジラにおいては米国に見捨てられると無力なまでの日本の法整備の脆さと形骸化された通過儀礼を踏まなければ法律さえ作れない民主政治の煩わしさ。これらのゴジラに必要な成分を踏まえた純正ゴジラは第一作以来初めてではないだろうか、

 

 

次の視点として先進的映画として、シンゴジラポケモンGOは相似、突然言われてもピンとこないだろうが、まずポケモンGOとはグーグルが開発した拡張現実ゲームで拡張現実とは実際の位置情報に空想の位置情報を重ねる技術のことであり、シンゴジラはこの構造を取り込んでいる。

 

ゴジラという古典作品に符合するようにエヴァという既存のフォーマットを調整することでゴジラを見ているのにエヴァ特に新劇第1作のヤシマ作戦を見ている錯覚に陥るとともにエヴァ自体が特撮ミニマミズムであるが故ゴジラとの融合が無理なく成功している

 

 

この方向性に挑んだ(おそらく恣意的ではないが)のは松本人志監督作品「大日本人」が邦画の中では先駆で成功に導いたものはシンゴジラが最初で向こう10年に渡って、この完成度の拡張現実的映像作品を成し遂げるものは現れないはずだ。

 

 

最後の視点としてエヴァQの別シナリオとしての視点。エヴァQの娯楽作としての仮説をシンゴジラは具現化した作品と言え、岡本喜八も静止画として出演し岡本作品の影響が濃厚で会議室での官僚と政治家による高速会話劇を中心とした早いカット割り、苛烈な戦闘描写は日本のいちばん長い日がベースになり、更に運命に抗う希望を描き、首都決戦後壊滅状態になってもヤシオリ作戦を立案し見事にゴジラの活動凍結に成功する。

 

それはまさにサードインパクト後の新しい世界線を始めて描くだけでなく活劇に幸福な帰結を与えるという庵野が乗り越えられなかった壁を打ち破った作品にして、仮説が正しかったことも同時に証明されたといえる。

 

 

シンゴジラとはQの別解であり庵野による新劇エヴァの補完計画であった、というのが僕の仮説だ。

 

 

 

⑨シンへの希望、そして

 

  ここからはエヴァの未来の話を。

 

庵野秀明率いるスタジオカラーは新劇場版シンエヴァンゲリオン:||の製作を進め、数多の推察の中で僕自身の予想を挙げると、Qの続編としての接続作品を作る方向ではないか、

 

Qのリビルドも含めた完結編としてのシンエヴァを製作するやり方を採用するのではないかと考えている。なぜなら破局的帰結を示したQへの接続は困難であることは自明でシンゴジラの成功によってリソースは潤沢であるので新たなシリーズ製作は不可能な選択肢ではないから。

 

 

真の完結を果たすのかは不明だが庵野氏の私小説的な様相が強い作品であるが故、死ぬまでエヴァンゲリオンを創作しては破壊し喜びや悲しみをダイレクトに投影し世界線を数多く建設していくかもしれない。

 

 

永遠に完結しないアニメ界のサクラダファミリア、エヴァンゲリオン、カヲルはα世界線でもβ世界線でも消え失せ、シンジが困憊したときに現れシンジの前で残酷な死を遂げる。

 

使徒の魂と人間の肉体を持つ渚カヲル、彼はもう出現しないのか、旧劇においても新劇においても渚カヲルという文脈が適切に処理されていない以上次の新たな世界線つまりγ世界線において現れるのを待つべきなのかもしれない。

 

カヲルは、その不思議な様相と中世的な見た目から大人気キャラクターの一人で、旧劇が破滅的な帰結へと向かう過程での出現や新劇Qの事実上の主人公であったがために、あまり良い印象を持たないのが僕の率直な感想、是非この不完全燃焼したカヲル問題を解いてほしい。

 

改めて見てみると、あらゆる世代が夢中になり様々な議論を交わし多くの人々の人生に影響を与えた名作、このような作品に僕は、これから先に出会うのだろうか。

 

ファンであれアンチであれ第三者であれすべての人々にこれだけは言える。それはエヴァが好きであれ嫌いであれ新世紀エヴァンゲリオンを鑑賞できる世界線に生まれたことは神の福音(エヴァ)であると。