牽牛星のよろず日記

自分の興味あることを思うがまま記述したいと思います。

僕が講義をするなら。

今回の記事は大学教育(といってもそんな固い内容ではないですが)について自身の思うところを付す。僕は現在、某国立大学の理系学部3年生で、3年間様々な講義を聴講する中で、『こうしたら良いのに、なんでこうしないんだろう』と思うところが多々あり、自分は将来は物理学者を目指していて、もしかしたらアカデミックポスト(教育機関の講師)に就きながら研究をしていくかもしれない、そんな未来予想図を思う中で、自分が仮に大学などの教育機関で講義を担当するなら、どのように進めていくかを書くとする。

 

 

 

①講義はストリーミング

 

まず講義の進め方、教室に決まった時刻に集まって講義を集団にするといった形式は採用しない基本的に理系の講義は実験を除いては、座学の講義と演習形式の2種類が列挙できる。

 

両方ともに講義室に聴講者を集めて講義を行うということはせず、聴講者のメールアドレス(学内用のメールアドレスを近年では入学時からテンプレで存在するはず)に講義動画を送信し、その内容を学習してもらう形が理想的。

 

演習系講義に関しては、予習用動画、問題、復習用動画の順に送付し、個々人で学習してもらい、問題についての議論を教室でおこなったりするようなスタイルは廃す。

 

上に付した内容のメリットについて述べる。

 

⑴動画送信によるメリット

 

まず動画送信による講義形式なので教室に集まることはないため、講義に遅刻するといった概念が消失する。よく絶起といった言葉を使われる学生さんを見かけますが、動画配信なので教室に行くこともなく、通学に時間のかかる学生さんにとっても通学に要する時間のロスを抑えることが出来る

 

また、動画なので、何度でも見れて、何度でも聞けて、巻き戻したり、倍速で再生する事も可能なので、聞き逃すといったことも少なくなる。

 

ある時ツイッターで某大学の講義中、多くの学生が担当講師の話を聞かず私語をして授業崩壊をおこしている様を撮影した動画が流れてきた。僕は被害者しか、この教室にはいないと感じた

 

 まず講義を聞いてもらえない講師、講義を真面目に聞きたいのに邪魔をされる学生、そして最も重要な被害者こそ、学士が欲しいだけで入学した学生。彼らは迷惑をかけているので当然ながら善い行いはしていない。しかし彼らの存在こそが大学教育にとって重要な存在で、こうした一団の存在とどう向き合うか、が講義進行の最重要課題である。

 

今は、大学全入時代と言われ大卒というのも珍しくはなくなってきたが、日本の就職時における学歴主義は健在で、大学進学も学士取得により就職で有利に立とうとする動機が強く、学習希望と学士希望の間のズレが発生していて、そこに少子化による学生の質の低下が合わさって前述した悲劇を引き起こしている。

 

企業にとっては4年間時間を潰してくれ、大学は学士志望の人間を多く入学させ集金出来ることでWIN-WINの関係を築いてきたが、この関係はこれからも続くと想定され、受け入れる側のスタンスを変更して対応していく必要がある

 

講義を担当する優秀な研究者のメンタルや負担を考えても、集合形式の講義よりは動画配信のほうが講義を邪魔するという要素を排除できる。日本の大学生は世界の大学生に比べて勉強しないと言われて久しく、それは単純に勉強したくない学生を入学試験で通してしまっているだけで何もおかしなことはない。そうした学生さんを、いかに上手く処すかが問われているのが大学教育だ。

 

講義の進め方を超過した話だが、アカデミック理系分野というのは学士4年修士2年博士3年の9年方式で理学博士を修得する流れで、学部3年間で学士修得の単位数の9割は揃い、学部4年では3年間の成績と志望を考慮した上で研究室配属を行うことが一般的。

 

ですが卒業研究といっても既存分野のまとめ書きのようなものに過ぎず、その意義を問う声も多く、理学部数学科だと卒論を書かないというところもあるそうです。

 

学部卒のみで良いような学生さんを研究室配属させることにも疑義が生じ、外部の研究室へ修士で移籍する人も内部の研究室で1年過ごすのは、どうなのか、という疑義も。そこで提案したいのが学士3年修士3年博士3年のトリプルスリー制度

 

学士資格を望む学生は3年で卒業し研究室配属における人員配置も滞りなく実行されることを可能にし、学士4年を廃するメリットは少なくないと考えます(この方法では大学側と企業の目論見が崩れるので、実行されることはないと思いますが)。このような形はいささかドラスティックに過ぎますが、学習を望む人と学士修得を望む人のゾーニングを遂行することこそこれからの大学教育において重要であると考えます。

 

 

また履修制限を教室のキャパでかけなければならないという問題も動画配信では解決され、この動画をYouTubeなどにupすることで多くの方々に見ていただけるので知の発信としても有意。ただ授業料を払っている人/いない人が平等に講義動画を見られるようになるのはアンフェアな気もするので、部分的に留める可能性は考慮しなければならない。

 

YouTubeなら翻訳機能も兼備されているので、今の翻訳機能では文章が不完全な形で訳されてしまって使い物にならないところも散見されますが、いずれ機能の向上により日本語を母国語としない方にも見ていただけるものになる可能性もある。

 

この動画配信スタイルを全講義(といっても体育のようなものは無理だろうが)で採用することが出来れば時間割という概念を破壊することが可能。国立大学ならば時間割として5曜日5時限の25時限しかなく上級生向け講義、もしくは他分野の講義を聴講しようとすると『カブリ』がでてしまって不可能となるケースがある。

 

しかしながら今ドキの大学は多様な価値観の創出のために他分野講義の聴講を促していて、こうした要請に対する不備を、ストリーミング講義によって再整備することが可能であり、好きな時間に好きな講義を動画で学ぶことを可能にする。

 

人口減少と少子化により学生数、教員数もこれから減少していくことが予想される中で、複数大学での講義動画の共有といったスキームも考えられ、一部大学で教員の数の不足への対応として民間の専門家による講義動画ストリーミングの採用といった義の民営化といった手法も提案される

 

⑵議論系スタイルへの疑義

 

近年の講義の中ではグループワークによる生徒の自主性の喚起、いわゆるアクティブラーニング(以下AL)系講義が流行し、これまで、多くの実施報告があがっていて、様々な問題点も報告されています。僕は、こうしたALには否定的な立場をとっていて、議論系講義の実施もすべきでないと思う。

 

僕はAL自体を否定しているわけではなく、ALの成功には、いくつかの条件が要請され、そうした要請を満たし得るのが多くの共同体では困難であるからこそ否定的であるというスタンス。

 

まずALは通常の座学における担当教官による受動的なスタイルではなく、事前に学習内容を提示したり既存の学習知識を用いて、いくつかのグループに分かれて問題の解決へ向けて議論していくスタイル。この方式は『新しい教育スタイル』のイメージを創出でき複数の教育機関で実施され、今では珍しいものでもなくなってきた。

 

AL系講義の実施報告に多く見られる記述として、予習段階での差と先天的な能力の差によるグルーピングの難しさから想定された到達点に達しないケースが多くみられ有意義な形を創出することが困難であるいったもの。

 

元々成績の良い優秀な学生さんは準備もしっかりとやってくるのに対し、成績の悪い学生さんは準備もしてこないことが多く、そんな両者が組み合わされば、優秀な学生さんは、ずっと成績の悪い学生さんの『お世話』をしながら議論することになり、おのずと議論のベースキャンプ位置の低さから到達点も低く、モチベーションとしても成績の良い学生さんは世話するのに疲れてしまってやる気を失い、成績の悪い学生さんも迷惑をかけていることに対して罪悪感を感じて講義自体を欠席しがちになるケースの発生が考えられる(実際、僕が聴講した反転型講義でも同様の現象が)。

 

大学入試という能力平衡装置があるといっても、入試には下限があっても上限はなく、一定レベル以上ならば誰でも合格してしまい、この凸凹は発生してしまう。ある程度の成績や能力の平衡が担保されないとAL系講義の成果を出すことが難しく正直、運次第となる。

 

また、生徒のパーソナルな部分、特にリーダーシップやコミュ力がないと議論もコントロール出来ず、ここも要請される前提条件なので成功するかどうか微妙。

 

本来ALとは盤石の基礎知識を有している事を前提として導入しないと空転することは目に見えている。前提条件を鑑みるとALの導入は極めて難しく、確かに皆で一つの題材に向かって議論しているのは見栄えは良い、しかし内実としては厳しいものを抱えているのが現状。

 

ALを採用するなら一定の成績、能力面の平衡が担保され、準備もしっかりとこなせる予習能力があり、かつ円滑に議論する能力を全員がテンプレで備えている必要がある、これは極めて厳しい条件であり、やはり議論系を実施するのは基本的に難しい。

 

 よく基礎力の建築段階においてのAL系講義の成功例のようなものも見受けられますが、それは奇跡的なマッチングが発生したか、それとも結果を一部『加工』しているか、どちらかだ。

 

『加工』とは少し響きの悪い表現だが、成功したと説明しているものは、大抵教員の定性的な感想、もしくは評点の分布や何らかの成績に対する定量的表現を用いたものといったところだ。

 

まず学生さんの通期つまり4か月程度の学習成果を正確にはかる定量的基準は存在せず(この点に関しては後に述べる)数字を見栄え良く見せることは容易に出来る。グラフの縮尺を調整したり、評点に関しても試験問題ならば後述するように人脈による有利/不利が発生してしまい、ALによる成功度合いを正確に測ることが困難。

 

確かに、そういった成功例で示されている数字に嘘はないかもしれない。しかし数字とは本当のことを言っていても、本質を言っているとは限らない、何とでも都合の良いように見せるための操作をすることが可能だ。

 

成功例全ての結論を否定したいわけではないが、成績分布の向上を盾に実証しているケースにおいては授業点が客観性をもって採点されてるか、試験問題が過去問と酷似していて人脈要素が強く影響していないか、といった部分を注意深く観察してみないとALが成功しているかは判断できない。

 

 

②試験は実施しない

 

次に成績評価の方法についてですが、定期試験の実施、そしてそこに提出物、出席点を加味して評価を下すと言ったスタンダードな手法は採用しない。成績評価に関しては複数回出すレポートの内容を見て点数を付ける。

 

試験実施にはいくつかの疑義があるので実施しない方が良い。また、極端な事を言うと個人的には成績を付けるという事も出来ればすべきでない。それは正確に評価を下すことが困難だからだ。

 

上で列記したことを詳しく話す。

 

⑶無試験のメリットと高得点獲得の手筋

 

まず試験をする、ということは通期ならば16回ある講義の内、中間、期末で2回使用する、つまり90分授業ならば3時間を試験実施に費やすことになる。この時間を講義時間として使用することが出来れば、より多くの内容を伝えることが出来る。

 

当然ながら試験時間を抑制することは可能だが、そうすると試験で出題できる問題に抑制がかかり、より良い試験問題の作成が困難になる。

 

また、試験に出やすい問題としては、90分程度で解答出来るものという最低限の制約を踏まえて出題できる問題数の限界を考えていくと、発展的問題を出題すると少ない問題数で当該科目の理解度を問え、どうしても発展的大問が半数を占めることが多い。

 

しかし、講義とは大抵の場合、初歩的な基本概念の説明に多くの時間をかけて丁寧に説明しながら試験1週間前、2週間前に試験に出やすい発展的問題の内容に触れるので、どうしても試験に出やすい発展的問題を短期間で修得せざるを得ず、内容の理解よりも、その内容から創作しうる問題を想定し、解法を暗記すると言った手法を選択する学生さんも少なくない。

 

他の講義の試験勉強との兼ね合いを考えても、中々、難しい。そういった事情を鑑みるに学問を深く学んでいく学習よりも試験攻略に特化した学習の方が成績面では有効に働いてしまうのも悲しい現実。

 

試験で高得点を獲得する手段について、正直、大学の試験とは人脈ゲームの様相を呈している。過去問を入手する経路の確保、手に入れた過去問の解答を作成しあってくれる友人の存在。こうした人脈を使って早期に対策を打つことが試験攻略の王手飛車取りであり、学力よりもコミュ力がモノを言うのが大学試験

 

試験問題を毎度回収したとしても漏洩することは少なくなく、問題をこまめに変更しようにも講義内容が不変である以上、出題できる問題にも限りがある。実際僕も回収型試験問題の情報を入手したことがあるし、イタチごっこになってしまう。

 

上記の理由を考えても試験とは、純粋な成績というよりも、如何に有用なチャンネル(以下CH)を有しているか、そうしてCHから得た物資を利用する手法に優れているか、が問われ、過去問と解答さえ得られれば講義に1度も出席しなくとも(講義内でレポート宿題が出る可能性を考慮して講義を受けているCHが必要だが)単位取得、ひどいときは評点で満点を獲得することも十分可能。

 

こうしたことを鑑みると試験の実施による成績決定に対し疑義を抱いてしまうのが事実で、講義時間を増やす為にも実施は見送るのが妥当。ただレポート課題を出したとしてもCHを使って解答を共有したりされるので、どうしたってCH数が成績に直結してしまう。そこで提案されるのが評点による評価を捨てる事。

 

⑷教育成果の絶対的評価基準の不在

 

大学において、講義準備→講義→試験→評点付けといったフローで進めていくのが講義担当教官のベーシックな仕事、つまりは講義とは評点をいかにしてつけるかという帰着へ向けたもの。こうして採点された評点の平均値として算出したものを一定の点数に圧縮し数値化したものをGPA(Gross-Point-Average)といい、この値で生徒の学習における成果を評価し、研究室配属の際の参考値として採用される。

 

試験に関しても、またレポートに関してもCHによって成果が左右され、また、その総合でもあるGPAに関しても純粋な成績評価といえず、講義によっても評価がバラバラで、講義時間の2倍の学外学習時間を1単位とするといた文科省の1単位に対する定義も形骸化しつつあり、容易に単位を獲得できる『楽単』講義がどれか、といった情報をいかに正確につかんでいるかが重要になる人脈ゲームの様相を呈している。

 

GPAを上げたいならば、楽単講義を受けて、必修、準必修講義において過去問/解答を入手/製作することが重要で、むしろ向学心から上級生向けの講義を受ける方が、どんどん下がってしまう可能性もある。

 

現状の大学においては、生徒をいかに留年させずにカリキュラム通り卒業させるか、が重要視され、『下駄をはかせる』ことが常態化しつつあり、今の大学の成績評価を考えると、いかに生徒を滞りなく卒業にまで至らせるかといった大学のベルトコンベアー化が進行していると言える。

 

こうしたベルトコンベアー化に対して、どうやって落第者を抑制しようか、と頭を悩ませながら多彩な『下駄のはかせ方』を考案し続けて、結局のところ、複数のレポート、出席点、試験といった要素を増やし、生徒の成績をにらみながら傾斜を変更し続けて落第者を抑制するという謎の作業に優秀な研究者が駆り出されるのが、果たして有意義なのか。

 

結局、教育における最適スキームの模索が延々と続くのは教育における成果の定量的評価の絶対的基準が存在しない事にあるので、教育企画を採用して得られた結果が果たして成功しているのかどうかを議論することが難しく、モデルの有用性の議論は困難を極め、また学生の成績評価においても正確な指標の採用が困難であり、正確に学生の学習成果を判断することが、そもそも出来ないといった事態になると考えられる。

 

いっそ成績評価自体は捨てよう、とドラスティックな結論に至り、GPAの利用自体を投げ捨て、単位の合否のみを決定すればよいのではないか。

 

いささか過激な結論に至ってしまい、全文を読むと既存の教育体系の全破壊を肯定するような文章の様相を呈してきたが笑、僕は何も、教育システムの完全破壊を実行したいわけではない。しかし現在の大学教育を3年間受けてきた身としては優秀な研究者が疲弊していく様を見るには忍びなく、また国が補助金やらなんやらで助けてくれる論に関しても、正直期待できない。

 

日本とは良くも悪くも民主国家であって多数こそ正義の国なので国民生活に対して直接的に影響を与えない事象に関しては無関心で、ポスドク問題に関しても国民的に大きな関心事になることも想定しづらいために国家が『正しい』救済策を実施するとは考え難く状況は悪化の一途をたどることが想定される。

 

多くの国民にとって科研費の削減といったことは他人事に過ぎず、理数系研究者についても実利的に役立つものへの寄与が具体的に分かりやすくなって初めて多くの人は興味を示すため、国も動くとは思えない。

 

そもそも『今だけ、自分だけ』が加速していくグローバル社会において、誰かが助けてくれるはずだといった考えを持つのは危険。現状が好転しないという想定の下で、いかに無理のない範囲で現状に対して適切な対応をしていくか、が問われている。

 

 

③最後に

 

これまで述べたことは現在の教育スキームに対し個人的に思うところを付し、その中で、どのように処すのが適切かを自分なりに考えてまとめた次第である。

 

ただ、やはり学習に積極的でない学生さんと積極的な学生さんのゾーニング、動画配信といった手法は現実的に実行すべきだ。試験に関しては、やはり講義時間の確保と人脈ゲーの入り込む余地をミニマムにすべく複数のレポートを課すなどして対応するべき。まぁ流石に成績評価を合否だけにしてGPAを捨てるのは、やりすぎだと思うが笑。

 

教育とは効果を評価できる絶対的基準が存在しないため正解がなく模索が永遠と続いていく。ただその過程において内実が良く分からない横文字の見栄えの良い教育モデルに飛びついては混迷を極める現在の状況を憂いている一人としては、理系分野において優秀な研究者の教育的負担軽減のために期待できない国の支援になるべく頼らずに柔軟な思想で現状に対応していくという方向性で現在の教育的環境が良化されて行って欲しいと強く願っている次第だ。

 

未来の教育環境がより良いものであることを祈りながら記事を結ぶ。

大学生への推薦図書/映像

よく大学生が読むべき書籍100といった内容の記事をよく目にする、書籍だけでなく映像も入れるた推薦の不在に気づいたので、一度まとめておこうと思う。

 

 

攻殻機動隊SAC

 

 

初めにオススメしたいのは攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX。名前は聞いたことあるけども取っつきにくそう、といった印象があろうかと思う。攻殻機動隊とは義手、義足といった義体技術が進んだ近未来における公安警察の特殊部隊を中心としたSF作品

 

元々は士郎正宗の漫画作品として描かれ、その後に押井守によってアニメ映画化され、そして攻殻機動隊SACとしてTVアニメ化された、その後に攻殻機動隊ARISEとしてリビルド、といった歴史を持つ人気アニメ作品。

 

その中でもSACは最高傑作との呼び声も高い名作で、人間と機械の境界線、国家治安機関としてあるべき姿、組織論、移民政策の是非といった様々な問題が提起され、下手な新書を買うよりも多くの考えや疑問を与えてくれる作品である。

 

 

技術革新が提起する課題

 

攻殻機動隊は前述した通り義体化技術が進んだ世界を描く、具体的には義体技術が向上し電脳と呼ばれるマイクロマシン技術が発明されネットに接続することを可能にし、また義体化により脳と神経系以外を機械化したサイボーグとして生きることが可能になった世界が舞台(また2度の核戦争を経て今とは異なる世界情勢が展開されてもいます、この事は詳述すると長くなるので割愛)。

 

そんな技術開発が進んだ世界で電脳戦を専門とする特殊組織公安9課を中心に展開される。電脳世界において義体化技術と高性能サイボーグ技術の発展により人間とロボット(具体的にはAI)の境目はどこにあるのか、その違いについて本作では『ゴースト』と呼ばれる概念で区別される。9課が保有するAIロボットにして多脚戦車であるタチコマが提起する課題も中々興味深い。

 

タチコマは高い知性を有し、自律し、またタチコマ同士で情報を共有するために並列したりする高性能AIロボットでありながら実際の任務でも戦闘に参加するなど補助機械に留まらない活躍を見せる屈指の人気キャラ。

 

物語が進むにつれて自身は何故生まれたのかといった実存主義に至り草薙は任務での不確実性を向上させる因子を内包しているとの恐れから一時的に任務から外します。しかし仲間のために自己犠牲を払って9課を2度救う。この帰結は涙を誘う胸アツ展開なので是非見て欲しい。

 

機械の発達という課題においては近年ではAI技術と人間の共存の課題も提起されている、機械が反乱を起こし人間を破滅させるのではないか、といった極端な思想に代表されるように、我々は機械を敵視しすぎるてらいがあります、また僕自身AI論法ともいうべき主張をされる方への危険を感じる。

 

『それ、AIで将来的に出来ます』といって煽ったりする方のほうが議論になりやすくテレビ受けするためにマスコミではよくみられる論法だが、僕はそうは思わない。機械は人間の仕事を奪うよりも向上させる方に寄与するはず。将棋ソフトポナンザが発展しプロ棋士を凌駕する実力を持っていてもポナンザ同士の対戦に熱狂はない、研究対象の道具としての採用がベターという立ち位置に落ちついている。

 

AI論法において将来出来るというのは保障もなく、お笑いもAIで出来るとのたまう人もいますが、おそらくネタ作りの補助といった形での採用に留まるはず。機械に対する反発を招くAI論法は危険だと思います。

 

ホーキング博士の言うロボットの反乱による人間の支配の終焉、については『ターミネター』が分かりやすい。核戦争を機械が誘発し人間と機械の戦争が始まるといったことに対しアンサー作品とも呼べる作品が存在する、『マトリックス』。マトリックスでは人間は機械に支配されるものの人間界から救世主が現われ機械との戦争に打ち勝つと帰結する。実はマトリックスに大きな影響を与えたのが攻殻機動隊だ。

 

マトリックスシリーズの生みの親、ウジャウスキー兄弟は攻殻の影響を明言していて、その影響は支配の定義に現れている。『サピエンス全史』にも書かれているが『人間が支配者となれたのは人間こそが虚構を生み出す能力に長けているから』と主張する。

 

マトリックスにおいて人間は機械によって作り出された映像を見せられていて実は絶滅寸前であるという設定が採用され、これは虚構の創造こそが支配と同値であるという思想を持っていると言える。機械が人類を虚構で支配する能力は人類間の家族、愛、共同体といった虚構の前には勝てないというのがマトリックスの最大の主張である。

 

この支配を巡る論争も攻殻機動隊内では提起され、SACにおいても虚構世界に支配された人間の話が複数登場し、電脳世界という虚構による支配といったガジェットは全世界のクリエイターに影響を与えている。

 

 

SACという現象

 

本作の題名スタンドアローンコンプレックスとは独立した個に影響を受けた人々や物事がまるで影響を与えた個の意思とは無関係に絶対的な個による統一的な事象のように複合体として伝播し続ける事、ややこしいですよね笑。

 

本作においては笑い男事件、個別の11人事件という2つの事件を軸にシーズン1、シーズン2が構成される。両事件に共通するのがSACという思想。

 

笑い男事件は電脳世界の不治の病である電脳硬化症の治療薬を巡る関係者の不正行為を白日の下にさらそうとした犯人であるスマイルマークで自身の顔を隠すようにハッキングしながらテレビの天気予報中に関係者の証言を迫った笑い男に追随するように企業脅迫が行われるといった笑い男本人の犯行にかこつける犯罪が起こる。

 

個別の11人事件でも全く関係ない人間同士がある特定の目的のために相互作用を起こしながら犯行の波が伝播していくといった現象が発生する。

 

これは並列化する時代が引き起こす暴力だ。ネット炎上といったものも全てではないですが一部はSACと言えなくもなく、全く関係のない独立した個がお互いが見知らぬうちに相互作用を引き起こし、それに連なって情報を並列化した人々が現象を大きくしていくといったことは拡散し大きなうねりを起こす現代に潜む新たな暴力の一種だ。

 

このように攻殻機動隊は前述した問題以外にも様々な考えさせられることが多数あるので是非ご覧あれ。

 

 

 

セイバーメトリクスの落とし穴(お股ニキ著 光文社新書)

 

次にオススメしたいのはツイッター界でも随一の野球クラスタとして知られるお股ニキさんが書かれた新書、通称お股本。現代のデータ主義が進んだ世界で起こっている事象を考える良い書籍だ。

 

 

合理主義が殺す娯楽性

 

野球に詳しくない自分は読めるのか、心配、と思ってらっしゃる方でもイチロー選手は御存じだろう。日本野球界が生んだ最高の俊足巧打の外野手であり2019年に引退された名選手。そのイチロー選手は引退会見で『今の野球は考えることをしなくなった』とコメントを出した。これはどういうことなのか?

 

おそらくですがデータ分析が発達した今は選手自身で判断する前に事前にどういった挙動をすることが成功確率が高いかをアナリストから教示されてプレーしていることを指していると思われる。

 

本番で慌てないように事前に本番を想定し考えられる展開の予想と対応を事前に考えることによって本番で考える事を減らすのは合理主義のアメリカらしい考え。しかしながら、現代野球においてはいわゆる動くボールとよばれる半速球であるツーシームカットボールの多投で芯を外しにいく投球術に対応するためにフライボールレボリューションによるフライを打ちにかかる打撃術が登場する。

 

またそういったダイナミズムに対応すべく落ちるカットボール通称スラットや早く激しく変化する変化球と豪速球を組み合わせる投球術が支配的とされ、今のメジャーリーグは力と力のぶつかりあう大味の野球が展開されている。

 

そして成功例は模倣され『並列化』されるのが技術が発展した合理主義のアメリカであり、投手は100マイル近い速球と万能変化球スラットを兼備した本格派で溢れ、野手も打ち負けないフィジカルを持った力自慢が幅を利かす。

 

日本人が好きな思想に『柔よく剛を制す』があり、まさにイチロー選手は大柄のメジャーリーガーを相手に小柄な体格でありながら技術と柔らかい体で世界最高リーグであるメジャーリーグで大活躍した、この事象は日本人にとってのカタルシスにバッチリとハマリ、野球ファンに限らず多くの日本人を楽しませた。

 

今の野球は支配的ピッチングが模倣され、柔が出る幕もなく剛が制す時代となっており、極端な守備シフトを始めグラウンドに出るまでに準備してきた事を披露しているとはいえ一種の思考停止状態になっているように見える。

 

そして技術の向上と支配的挙動の発明、改良、進化を日進月歩で進めるメジャー野球界いおいて悲劇が起こる。アストロズのサイン盗み事件。

 

野球において投球をする前に投げる球の種類をサインで伝え実行に移す過程が存在し、そのサインをホーム球場に設置されたカメラで撮影し分析し解析するソフトを用いて瞬時に味方打者に伝えたら、投げられる球種が判明した中でのトッププロの打撃はどうなるか、

 

これを実行に移したのがアストロズ。おそらく野球を知らない方だと、何が問題なんだろうと思う方もいるだろう。実際、アストロズワールドシリーズでサイン盗みにより滅多打ちにされたダルビッシュ選手本人も『彼らは悪気があったわけでなく先鋭的技術の採用として実行したのではないか』と一部理解を示す発言をしている。

 

野球界には不文律がいくつか存在し、その一つに投手捕手間のサインを盗む行為は御法度というのがある。しかし明確にルールブックに記載がなく、合理主義が発展することで相手をだますこととルール違反の境界が曖昧になった中で起こった悲劇とも言える。アストロズにとってホーム球場の設置されたカメラによる撮影やサインの解析技術は違反というよりも発達した技術の一種と捉えていたのだろう、これは難しい。

 

相手を上回ろうとする志向と支配的挙動の模倣と拡散を繰り返す合理主義による野球が、どうなるかわからないという不確実性にも近い娯楽性を叩き潰してしまうのは野球界以外でもサッカー界でも見られることだ。

 

サッカー界でもデータ解析技術は極めて発展し戦術戦略における準備の量と質は年々向上し、多くのチームが不確定要素の排除のための合理的応手開発と決定を行う技術を有している。

 

そして、このように不確実性を排除する準備の徹底と支配的スタイルの模倣が続くと、どうなるかというと質的優位性がモノを言うようになる。

 

サッカーで言えばメッシ、ロナウドのチームが支配的だった10年代の欧州サッカーが代表的。野球においても同種の対決となるために出し抜くためには元々の才能で差がついてしまうのが現状。

 

この方向性が正しいのか、それは議論の分かれるところで、様々な議論や意見があるのが普通だ。こうした娯楽性と合理性のあり方を含め、本書には様々な野球界での技術や思想が掲載されているので、野球に興味のある方は勿論、無い方にも読んでもらいたい。

 

 

 

③桐島部活やめるってよ(朝井リョウ著 集英社)

 

 

この書籍は映画化もされた有名作品で、タイトルのキャッチーさも相まって多くの方が聞いた事があるだろう。まず桐島なる人物が登場せずカタルシスが明確にあるわけでもなく、イケてない映画研究部の部員たちの哀れな扱われ方を見て悲しくなり、映像化されると余計に難解な印象が強くなったのではないか。

 

これは村上春樹の『ノルウェイの森』でも見えた現象なのだが、難解な文芸作品は表現できる次元を上げると余計に難解になる。ではそんな『桐島』について語る。

 

 

実存主義とは?

 

いきなり実存主義と言われても難解だろう、例えばペンとは書くために作られた、消しゴムはペンで書いた文字を消す為に作られた、では人間は何故作られたのか、この問いについて考えることが既に実存主義

 

ドストエフスキー罪と罰に代表される作品が提起し、ニーチェ、ハイテガー、ヤスパースキルケゴールといった思想家が発展させた。この桐島とは王道路線であるスクールカースト最下層のダサイ男の子たちによるイケてる奴らへ一発かましてやるぜ、的なカタルシスは確かにない。しかし僕は、実存主義的立場から彼らは一矢報いたというのが本作の最大のカタルシスではないかと考える。

 

この作品の最大の特徴はバレー部のリベロを務めるスクールカーストの頂点に君臨する桐島と呼ばれる男が部活を辞めて顔を出さなくなってから数々の学生たちに影響が徐々に及んでいく様を描いていて、当の桐島は登場しないことは前述した通り。この作品は桐島ロス現象ともいうべき桐島が居ない事で次々に起こる波及を描く作品。

 

 本作で最も桐島ロスの影響を受けない人物である映画部員前田、そして桐島の親友にして空虚な人生を送る菊池の対話というクライマックスへと向けて徐々に壊れていく様を描く、よって作品自体は地味で映画化されたものもアカデミー賞受賞作なのにもかかわらず金銭回収が困難だった。しかしながら小説、映画どちらにしても学園生活の描写はとてもリアルで素晴らしい。

 

 まず桐島という校内における絶対的な存在の喪失において、神格化されている桐島の到来を信じ続けるというのは救世主メシアの到来を信じ続けるユダヤ教徒のようだ、桐島の不在について悩み続けるという様は僕の目には、ある作品との相似性が思い浮かぶ。それは遠藤周作『沈黙』。

 

『沈黙』とは、江戸幕府において禁教とされていたキリスト教を信仰する宣教師が捕縛され信仰を捨てることを要求され、従わなかったことで拷問を受け続けながらも神はきっと助けて下さる、と信じるも、弾圧は激しさを増していき、なぜ神は助けて下さらないのか、本当は神はいないのではないのか、何故神は、主は『沈黙』するのか、と問う作品だ。

 

神の沈黙と向き合い続ける中で信仰の意味を問うのがテーマであり、信仰とは神の存在を絶対視し思考を停止させるのでなく疑念を持ち続け質問を投げ続ける事であると僕自身は感じ取った。

 

沈黙の最後に司祭は棄教を意味する踏み絵を行うが、そこで沈黙していた神の声を聞く。この声を巡る議論は様々で、一度読んでから議論したほうが良いので、ここでは付すのは辞める。桐島の沈黙の中で緩やかに人間関係や意識が変化していく中で最後の桐島のセリフが明記されていない『桐島』の声について色々と考えてしまう。

 

桐島という神の不在による混乱はニーチェの有名な発言『神は死んだ』を想起させる。ニーチェは前述したように実存主義哲学の発展に寄与した人物で、永劫回帰と呼ばれる無意味な一日の繰り返しこそが人生だ、という考えも有名。

 

ツェラストラで展開された神は死んだ発言については、絶対的な視点の放棄を促す目的があり、神を超越した超人を目指すべしと主張した。絶対的存在の喪失による共同体の混乱は昭和天皇を巡る自粛ムードを始めてとして日本社会でも経験していることだ。

 

『桐島』内では菊池宏樹という人物が実存主義へと至る様がメインルートで、彼は彼女もいてクラスメイトの何人かが羨望する性交体験を経て、友人にも囲まれ神様桐島の親友という状況であるにも関わらず虚無を強く感じながら生きる目的を見い出せず、いつかは消失する有限の寿命の使い道に対して悩み、そして桐島の不在による不安定さにより疑念を強く持ち、自身の周囲にあるものすべてが無意味であり、全てが虚構でしかないのではないか、と虚無主義に至る。

 

 

菊池宏樹は、そんな虚無が支配する虚構の世界で、楽しく生きている映画部員の前田に『何故、映画を撮るのか』と問いかけ前田は『好きだから』と返す。それを受け菊池が持ち合わせなかった虚構世界における自身の生きる意味を持つことに対して熱中出来るものを持った前田に対して一種の敗北を感じる、

 

 

このシーンと相似したものとして『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』がある。この作品はオウム真理教を下敷きとした作品でノスタルジアという暴力を描いた名作。ノスタルジアを感じさせる良かった過去の再現を実行した世界へと移行するためにガスを散布する(オウムのサリンガスによる現世のリセットのメタファー)ことを阻止しようと奮闘するしんのすけに対して『何故そこまでして、こんな世界を守ろうとするのか現実の未来は醜いのに』と問う、

 

しんのすけは答える、『家族と喧嘩しても共に生きたい、オトナになりたいから、綺麗なお姉さんと付き合いたいから』と答えるのです。これは『桐島』の最後の対話とよく似た構図。

 

前田としんのすけの回答こそが実存主義への一つの解答と言える。なんの意味もない虚構世界において熱中出来る何か、守りたいと思える何かを見つけられるかこそがテーマと言えるのではないか、と語りかけられているように感じる。

 

そして実存主義が提起する『何故人間は生まれるのか』について僕なりの解答を付す。それは『誰かの救世主になるため』。メシアのように万人を導くのではなく、世の為、人の為というと説教臭いですが誰かにとっての特別な救世主になるべく研鑽を積み、困っている人がいれば助け、無意味な虚無な虚構の世界において必要としてくれる人を救えるように生きていくことが生きる意味と信じている。

 

そんな実存主義を巡る議論を提起するのが本作。是非読んで映画版も見て欲しい。 

ペップシティとコアUT

 

バルサ時代

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

 

ペップは自身も選手時代を過ごした故郷のクラブ、FCバルセロナの監督として伝説的なポゼッションスタイルのクラブを作り上げ一世風靡した。

 

なぜバルサ監督を辞したのか、本人は疲れ果てたから、と説明したが、詳しく言うならば進化するためには大きな軋轢が発生するという課題を自身の手では解決出来なくなったから、というのが理由だろう。

 

ペップのチームは基本的に3年サイクルで作り上げるモデルを採用していて1年目で哲学と基本概念を注入しながら得点能力の高い選手が得点を獲りやすいようなスタイルを開発し2年目で幅を広げるべく様々なシステムを採用して3年目に自分たちのストロングポイントを発揮できるシステムを採用し足りない所を補強して結果を出す。

 

バルサでは1年目にポゼッションスタイルの原型を完成させメッシという得点源のために偽9番も開発され2年目には基本陣形となる433に加え4231や352といったシステムを開拓し更にはイブラヒモビッチのようなフィジカルスタイルの9番も獲得するなど幅を広げ3年目にはメッシを偽9番とした433を完成形と設定し、伝説的チームを完成させた。

 

翌4年目はセスクを獲得しメッシとのダブル偽9番を採用することで343という超攻撃的3バックチームへと昇華させることを目指す。しかしDFラインの中心選手であるプジョルはケガで離脱、ピケは調子を大きく崩し、チャビはインテンシティーが低下し、サンチェスはケガが続き、ビジャはCWCで大きなけがを負い、メッシは得点数は伸ばすものの増長し守備への貢献は0。

 

そもそもバルサは相手選手の間で受けるポジショニングで密集地帯を好守両面で作り出すことで数的優位を活かしたポゼッションと獲られたらすぐに取り返すハイプレス守備の一体性をウリにするチームなので主力の大幅離脱とメッシの守備放棄はペップバルサの事実上の崩壊であり、また中央突破とショートカウンター以外に主だった得点手段もないチームゆえに中央に選手を並べる中締めを受けるとボール回れど得点獲れずといった状況が続いた。

 

その状況を打破すべく考案されたのが外攻めのための純正ウイングの活用と中攻めの強化のためにセスクを用いてメッシの負担を軽減する事だがあえなく失敗し歴史的得点力を有するメッシに守備を厳命出来るわけもなく自身の辞任が一番と考え身を引いた。

 

外攻めをしようにもカンテラーノのクエンカ、テージョでは荷が重すぎ、また中央突破に特化したツケとして高さのある9番もおらず、柔軟性が良い意味でも悪い意味でもないところにペップバルサの特徴があった。

 

②バイヤン時代

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

 

1年休養を挟み次に就任したクラブがドイツの名門にして当時の欧州王者バイエルンミュンヘン。ペップ自身はブラジル代表監督が第一志望だったがブラジル人監督を望む協会側の考えもあり就任とはならず、選んだクラブはバルサ時代には存在しなかった強烈な外攻めを可能にするロッベンリベリーが在籍するドイツの巨人。

 

マンジュキッチの高さに加えロベリー(ロッベンリベリーのコンビの愛称)という速さを備えたクラブにバルサ仕込みのポゼッションを仕込めば最強のクラブになるのでは、という期待から凄まじい注目を浴びた。

 

ただ下部組織から一貫したメソッドで鍛え上げられたカンテラーノ(生え抜き)を中心とするバルサの選手とは技術レベルで大きく劣りボール保持のためのボール保持に終始してしまい中々上手く行かなかったのが1年目。

 

このことについては僕自身も強い懸念をペップ就任直後から感じていて、監督の仕事とはビルドアップとポゼッションによる組み立ての部分までで、そこからの得点を狙う崩しは選手の質に大きく依存するために最終生産者となる点取り屋の質以上のチームを作ることは出来ないのだ。

 

マンジュキッチは得点能力というよりもハードワークとフィジカルに優位性を持つタイプでペップバイエルンはペップバルサを超えるならば9番に本物が必要だろうと、そしてポゼッションに関してもバルサを知る人間が必要だと思っていた。

 

ペップは就任してから補強選手として要求したのはワールドクラスのアタッカーと中盤選手でした。前者は自身の弟が代理人を務めるスアレス、そしてネイマールレバンドフスキ、後者がチアゴでした。前者に関してはレバンドフスキ獲得で当時の所属クラブであるドルトムントと合意したが監督であったクロップが拒否し加入は1年後となり、またゲッツェという望んでいない10番が到来したのは誤算だった。

 

アゴは獲れたが、選手補強がバイエルンの場合資本の大量注入を良しとしないところがあるのでペップ自身悩みの種になった。

 

1年目はバルサ仕込みのポゼッション導入のために5レーン理論というピッチを縦に5つのレーンに分割し中央レーンと左右の端のレーンに挟まれた2つのレーンでの攻守を戦術の重要概念と捉えた新機軸を導入しビルドアップ、ポゼッションの完成度は向上した。

 

しかし前述したようなアタッカー獲得未遂により1年目は得点力に大きな障害を抱えロベリーもシーズン後半にケガがちであったのでCLではレアルに大敗し無念の1年となった(それでも国内では2冠)。

 

2年目にはレバンドフスキアロンソを獲得し、バルサ時代同様に3バック導入を含めたシステムの幅を広げるも中盤に使うには動きすぎサイドに置くと突破力のないミュラーの配置の問題、そしてゲッツェという望まぬ選手の扱い、ケガ人の続出、こういった問題により国内リーグ獲得のみに終わった。

 

翌3年目はロベリーに見切りを付け、バイエルンのストロングポイントはレバとミュラーの2トップへの同足ウイングからのクロス爆撃と捉えて、配置に囚われないポジショナルスタイルと2トップへの爆撃を兼備したチームを志し完成へと向かう。

 

成果が出たのがCLベスト16のユベントス戦。純正CBを欠く中でポゼッションで圧倒した1stleg、後半にリードを奪われながらも同足ウイングであるコスタ、コマンの突破からのクロスを浴びせ続け同点に追いつき逆転でベスト8進出を決めた試合はペップバイエルンの目指す形が具現化出来た試合として印象深い。

 

しかしながらベスト4のアトレティコ戦でペップ自身の持病(後の記事で付します)が発病しアウェイで競り負けホームで巻き返そうとするも追いつけず敗退し、バイエルン時代は3年間でCLを一度も獲れずに敗退する憂き目にあった。

 

バルサ時代の中攻めはミュラーの起用による2ボランチの採用に伴いゲッツェ、チアゴの起用を不可能にしてしまったので落とし込めずバルサ時代とは逆に中攻め以外の武器のみ揃うことになった。

 

フロントも会長であるヘーネスの収監、ルンメニゲCEOのドイツ人を集めたチームを作るという願望、出来るだけ金は使わないというスタンス、メディカルが練習場に常設していない問題、といったことに頭を抱えながらもクロス爆撃チームを構築しバルサ以外でもポゼッションは出来ることを示したことは大きな成功であった。

 

バルサでは中攻め特化型ゆえの柔軟性のなさに泣き、バイエルンでは周囲のサポート不足と中攻めの付加失敗に泣いたペップが次に指揮するクラブとして選んだのはイングランドマンチェスターシティ。

 

バルサ時代のフロントであるソリアーノとベギリスタインの2人が幹部にいてバイエルンでは不可能だった大型補強も出来るという環境は理想と言え、また戦術面でも技術力を武器としたパスフットボールを導入しているので柔軟性にも可能性がもてそうなことも就任を決めたキッカケになったかもしれない。

 

 

③シティ時代

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

 

(1)前途多難

 

ペップシティの成功は難しいと考えたのはスカッドにおいてペップのサッカーについてこれないであろうメンバーが多すぎて殆どチームを入れ替えるぐらいのことをしないといけないから。

 

まずペップのチームは相手陣地での攻撃の時間を増やすことで得点効率を向上し失点確率を減らすことをチームコンセプトとして掲げる、なので最後尾のGKには純粋なストップ能力に加えて組み立てへの参加と広大なDF裏の領域のカバーを任せられる選手が必要なのでハートでは不可能。

 

そもそもケガが多くて計算出来ないコンパニは構想に組み込むことが困難、繋ぎが苦手でローラインの潰し屋のマンガラも厳しく、また高齢化したサイドバックの4人は左足からの正確なキックに定評があるコラノヴ以外の3人(サニャ、サバレタ、クリシ)では国内を制覇するのさえ難しく、中盤でも潰し屋のフェルナンドはペップのチームには居場所はなく、高齢化し動けない上にペップのことを忌み嫌う代理人を抱えるヤヤトゥレは論外、素行不良のナスリも構想外、突破力がないナバスもしんどい。

 

そして多くの方に否定されるでしょうが今でも思っているので結果を出した今でも言いますがアグエロでは到達点は高いものにはならないので最終生産者として本物が必要だとずっと思っていて、ペップ自身もジェズスを獲得したりサンチェスを狙いに行くなどアグエロに満足していないのは事実。

 

 

実際に高齢化したサイドバックをムバッペに突かれてCLではモナコにベスト16で敗退しリーグでもハートを切ることには成功したものの代わりに獲得したブラーボ(ペップはバルサでストレスを抱えていたもう一人のGKであるシュテーゲンを欲したのだろうが)が自動ドア状態で守備は崩れアグエロはポジショニングと守備貢献不足からスタメンをジェズスに奪われ、1年目はペップの監督時代の中でも何も残らない不毛な1年。

 

僕は、ほれ見たことかと思った。補強資金があっても理想的な選手を獲得するには巡り合わせがあり、特に最終生産者は獲得が困難でペップチームのベースが備わっていないシティは正直いばらの道なのだ。

 

(2)諦念とコアUT

 

 

しかしペップはシティを選んだ。旧知のフロントがいてデブライネ、シルバ、スターリングという自身のフットボールの具現化に寄与する選手もいる(少なすぎるが)からこその選択。というよりも自身のフットボールの具現化に適したクラブは、あの時代のバルサだけで、どのクラブでも一長一短なので仕方なかった。

 

メッシという21世紀最高の最終生産者、カンテラ時代から脊髄反射になるまで叩き込まれている保持と組み立てのメソッドを有したスカッド、前者の不足を同足ウイングの突破で補い後者は5レーン理論を駆使し叩き込んでいくしかない、しかしペップのような聡明な人間なら分かっているはず。『ペップバルサを超えることは不可能である』ということを。

 

ではペップのシティでの真の狙いとは何なのか、それはおそらく『究極のコアUTスカッド』なのではないかと思う。

 

ではペップの真の狙いである『究極のコアUT集団』とは何なのか。UTとはユーティリティの略で文字通り複数のポジションをこなす人間を指す言葉。コアというのは核になる選手の事を指し、プロ野球でも読売巨人軍の岡本選手は4番でありながら3塁、1塁、外野をハイレベルにこなしコアでありながらチームの起用の可能性を広げる選手。このことはサッカーにおいても当てはまる。

 

(3)コアUTポジショナル

 

サッカーは局所的なフェーズにおいてはGKを除く10人の位置ごとに相対する1人の相手と向き合い攻防を行うことが多い。だからこそ、いかに誰を浮かせて数的優位を確保するか、そして誰をぶつけて質的優位を確保するかが本質。

 

そこでUTを多く抱えていれば故障者が出ても即時対応が可能で安定して成績を残せるので重宝される。しかしペップはもう少し進んだ考えを持っている。ペップの言葉に『システムは電話番号である』という有名な言葉がある。これはサッカーとは野球のような競技とは異なり展開や守備のマークする選手の受け渡しなどで、いかようにもシステムと陣容は変更されるのでシステムは数字の羅列に過ぎない、という事。

 

それは事実で、特にペップは右ウイングと左ウイングを時間帯ごとに入れ替えることで相対する敵サイドバックを混乱させたり、ビルドアップの際にもサリーダデバロンと言われる独特の配置入れ替えにより一時的な変更を与えている。

 

しかし一時的だからこそ可能なのであって永続的な配置変換は不可能、なぜならUTでない選手ならば一時的な変更でないとかえって混乱してしまい本来の能力が発揮されないことは明白だから。

 

例えばバイエルンだとビルドアップの段階でサイドバックのラームとアラバはボランチに移動、ボランチアロンソは3バック中央のCBに移動、CBはSBのように大きく横に広がる。アロンソはそのままCBでプレーするには守備力はなく組み立てが終了すると元に戻る。ここで組み立てが失敗すると一時的に3バックのCBとしての守備が求められるために危機を招きやすい。

 

ペップの様々な戦術、戦略は実は一時的配置変換が基礎にあって偽SBもボランチ変換するサイドバック、偽9番もトップ下変換する9番、このように一時的なUTを担わせるのがペップ戦術の肝と言える。

 

配置変換した先でも本職の様に振舞えると変換による効果もより発揮され、何よりも守備のフェーズに切り替わった時にこそ効果を発揮する。本当の意味でのUTつまりは変換先でも本職のように振舞える選手のみでチームを構築することが出来ればペップの理想のチームが出来る。

 

というよりもペップの狙いとは変換可能選手を数多く抱え、一般的なUTとは違いチームの核を担えるクラスの選手でありながらUTとして変換に耐えられる選手を集めたチームを望んでいるの、というのが予想である。

 

バイエルンではIH,SBに対応可能なラーム、アラバは代表的なコアUT。ペップのチーム以外でも9番が左右に流れたりしてMFもしくはウイングの侵入を促すケースがあるが、仮にウイングでも本職として振舞える9番ならばサイド突破にも対応しなければならないために相手DFは大いに手を焼くことが予想される。

 

実はこのUT性を有していたのが獲得未遂に終わったアレクシス・サンチェス。具体的に変換性を増やすペップの考え方とシティでの歩みについて触れよう。

 

 

(4)最終生産者メッシの幻影

 

 

実はコアUTの最高のお手本こそリオネル・メッシ。メッシは右ウイングでは逆足として振舞え左ウイングでも突破してからのクロスも可能(バルサではハンマー型9番がいないので発揮されず)、9番としても稀代の得点力を発揮しトップ下で創造性も発揮でき、中盤での崩し、中盤からの組み立てに関しても一流、つまり時間帯によってどこの位置に移動しても本職として振舞る最高のコアUT。

 

 

ペップが求めるコアUT型9番はウイング出身のほうが好みでシティに来る前はオーバメヤンを欲し、2年目冬の市場ではサンチェスを求めたことからもウイングでも本職として振舞えるタイプが好み。レバンドフスキアグエロも得点力に優れた選手であり信頼はしているのでしょうが翼を隠し持つ9番を欲している。今で言えばムバッペが理想的だが、中々獲得が難しい。

 

(5)シティが抱えるコアUT

 

 

 シティに在籍するコアUTについて紹介を付します。

 

 

〇盾となった矛 カイル・ウォーカー

 

ウォーカー獲得をペップが決断したのは1年目のCLモナコ戦でムバッペに偽SBがぶち抜かれた時がきっかけ。SBに対してはCB変換が可能なフィジカルタイプを望んで獲得された。ペップシティではCBとしての守備力を兼備しボランチとして中盤の守備力を担保するDMFとしての振る舞いも可能。RSB、RCB、DMFという変換をこなせ、右全域カバー能力はないが攻撃的なシティを支えるコアUTとして貢献度が非常に高い選手です。

 

 

〇悲運の戦術兵器 ベン・メンディー

 

フィジカル型選手であり、彼こそ真のコアUT選手と呼べる選手。左サイドバックとしてもプレー出来るだけでなく左ウイングバックとして左全域をカバー出来る選手でもあり、偽サイドバックとしてDMFの位置で潰し屋にもなれLCBとして受け止めることも可能、また通常のサイドバックとして左全域をカバーしながらの偽サイドバックも可能な稀有な左サイドバック

 

 

〇究極の万能戦士 フェルナンジーニョ

 

ジーニョはヤヤの相方選手権を勝ち抜いたシティの潰し屋、組み立てへの貢献も高い万能選手はペップ到来により彼の実力は発揮された。中盤より下のGK以外のポジション全てで本職として振舞えるコアUTで、あらゆるビルドアップの実現を可能にする最重要選手の一人。

 

 

〇ロマン派CB以上の存在 ストーンズ

 

ペップシティ1年目にはCBとボランチの選手が入れ替わるビルドアップが披露された、あれはストーンズボランチ、CBの変換を可能にする能力とジーニョのCB、ボランチの変換可能能力を合わせた戦術。

 

 

〇神 デブライネ

 

攻撃的選手として切り替えからのスルーパス、サイドでの高速クロスに加えてボランチとしてもプレー可能でギュンドガン獲得はデブライネのボランチ起用を想定したかもしれない。ボランチ、IH、右ウイングで神がかったプレーが可能なコアUT。

 

 

〇守備の大黒柱 ラポルテ

 

彼がどれだけ大切な選手か今季ケガで離脱したチームを見れば明らか。守備的左サイドバックとしてもプレー可能でボランチとしてショットガンを放つ役割にもフィット可能な選手。

 

 

〇戦う芸術家 ベルナルド

 

加入当初は順応に苦しんだが今ではすっかりシティの看板選手となった。左ウイングで偽翼としてプレー可能で右でもヌルヌルドリブルからのシュートも放ちながらしっかりとファイト可能な現代的な選手。

 

 

〇覚醒した英国の翼 スターリン

 

完璧な崩しから最悪のフィニッシュを繰り返していた残念な選手であったウインガーもペップの下では同足ウイングとしてチャンスメークが可能で得点能力も向上したため逆足として左でもプレーが可能に。中盤でのプレーにも挑戦し偽9番としてもプレー。ペップにとってジーニョが守備のコアUTなら攻撃のコアUTはスターリング。

 

 

本当ならばヤヤもOMF、DMF、CBで本職として振舞える選手であったのでペップは貢献度の少なさを考慮しても代理人が侮辱的発言をメディアにするまでスカッドからは外そうとしなかった。

 

 

 ここまで列挙した8人のコアUTを起用するとどうなるか。

 

選手の入れ替えなしに相手の出方に合わせたビルドアップで前線プレスを交わし柔軟な配置変換でポゼッションし流麗なポジションチェンジで様々なフィニッシュの選択肢を選ぶことが出来る。

 

ペップバイエルン1年目のリーガ前半戦のドルトムント戦。中盤のラーム、クロース、ハビマルの3人はビルドアップの時はラームがSB変換したCBの間に落ちてCB変換しクロースがボランチ変換しハビマルはトップ下の様にせりあがる10番変換を行うことで組み立てを可能にした。

 

前半に試合を支配するために高さのあるハビマルを前に出向かせてロングボールも含めてカウンターが強いドルトムントを無力化しようと試みた一手。この後にゲッツェ、チアゴファンブイテンの投入により試合を完全に掌握するが、この交代による変化はラームのボランチ、IH、RSB変換可能性、そしてハビマルのCB、DMF、IH変換可能性を利用したもの。

 

ハビマル、ラームというコアUTを利用した一連の采配をシティでは列挙した複数のコアUT選手により交代なしに実現可能。この変換可能性の開拓と実現こそペップがシティでやりたい一番重要なことなのではないか、と思われる。

 

ここでひとつ疑問がわきます。コアUTは分かった、変換可能性の開拓も分かった。しかしながら、そのチームって強いの? なんでペップはバイエルン、シティではCLを獲れないの? その理由がまさにコアUT戦略の負の側面。

 

シティは間違いなくコアUT選手と、それらの選手を組み合わせた戦術で相手の裏をかきいくつかのタイトルを実際獲得している。ではなぜCLで勝てないのか、今季の停滞の原因は何か? それはコアUT化というペップのメインスキームの弱点と彼のチームの潜在的弱点によるものであると分析する。

 

(6)ペップチームの課題

 

 

(序) アウェイ退きホーム攻め戦略

 

 

まずコアUTスカッドとは選手の入れ替えなし(もしくは最小限)に本職のように振舞えるスタメン級の選手の配置変換を中心としたチーム。ペップは根底にボールを握り試合の主導権を握るためには相手の予想を上回る配置変換と攻め筋の開発が必要と考えていて『秩序だった無秩序の構築』という現代サッカーの攻撃戦術をリードする監督なのは言うまでもない。

 

ペップがバイエルン、シティを通じて取り組んでいる複数ポジションを高次元に本職としてこなせるコアUTを複数作って相手の出方に合わせて手筋を変更してボールを握り相手を倒すというコアUTポジショナル理論こそがペップ戦略の絶対軸。

 

大耳を語るうえでは10-11シーズン以降は別次元の大会になってしまったことがある。簡単に言えばメッシのバルサロナウドのレアルが常に優勝の最右翼であり、それ以外のチームは2強が転げるのを待つしか優勝はない。

 

元も子もない言い方をすれば大耳とはメッシバルサロナウドレアルの調子のよい方が制して両者の調子が崩れるか奇跡的な勝利があった時のみ他のチームに優勝の可能性がある。大耳とは戦術の完備性ではなく絶対的得点源で殴れるか、が重要な大会であって分かってるけど抑えられないレベルの攻撃力こそが物を言う

 

そして大耳を獲得すべくメッシ、ロナウドを抱えないチームの監督はいかにして欧州を制覇するか、について頭を悩ませながらしのぎを削ってきたというのがココ4,5年の欧州シーン。

 

メッシ、ロナウドを抱えない最前線で戦うチームの名将として列挙されるのはクロップ、アレグリ、ペップ、シメオネ、トゥヘル。このうち大耳を制覇したのはメッシを抱えていた時代のペップと昨季にバルサに奇跡的勝利、レアルの不調も重なり大耳を制覇したクロップのみ。11-12以降ならクロップのみ。ではなぜここまで大耳を稀代の戦術家たちは逃してしまうのか。

 

ペップとアレグリは選手の起用の柔軟性、システムの可変性の向上といった面でオランダ流、カルチョ流という違いはあれど似通った監督。そして両者の大耳への対応はアウェイ戦では自軍の手筋を極力見せない言わば日本シリーズ第1戦でコントロールの良い投手を先発させて相手打者のデータを獲得するかのように、引きながら様子を見る。そこで得られたデータから応手を全てそろえてホームで叩き1stleg2ndleg全体で相手を上回ろうという戦略を採用する傾向がある。

 

ただこの戦略ではアウェイ戦での消極的な戦いで不利な結果を持ち帰ってしまいホーム戦で善戦するもあと一歩足らずで敗走するという結果を多く招く。ここにペップ、アレグリの戦略の弱点がある。サッカーという競技は得点、失点が少ない傾向にあり、応手で完璧に相手を崩したとしても得点が確実に獲れる保証はなく、日本シリーズと違って7戦もないことも難しい。

 

 

(破) 質に依存するコアUTポジショナル

 

 

ペップはバイエルン時代以降はコアUTとポジショナル理論のハイブリッドという戦略を展開してきた。そして、このコアUTという特殊な性質を持つ選手が稀有であることがペップチームの大一番での弱さ、最大値の形成の難しさに影響を与えてしまう。コアが稀有な選手である以上そもそもスカッドをつくるうえで移籍金の問題で資本の大量注入が必要で、また代わりが利かない選手ばかりなのでピークの作り方が難しい。

 

例えばシティではメンディーというレフトバックが恒常的に出場できないので左サイドバックはシティの守備の穴となっていてメンディーが在籍はしているために本職の主力級の選手の獲得も出来ず苦しくなっている。

 

また2年目の資本注入からも明らかに狙う選手が希少種ばかりなので金銭的にもメガクラブでないと具現化不可能なのがコアUTポジショナル。 

 

また攻守のクリティカルな局面において選手の質に大きく依存する傾向が強いためにラポルテが離脱して失点が離脱前の2倍となってしまった。元々少数の選手による少数の選手でしか出来ないフットボールスタイルの採用による弊害として主力の離脱に極端に弱いチームとなる。

 

ペップ自身も言及しているように『監督の仕事はシュートの局面までの誘導であり、そこからは選手の質に依存する』のでバルサのようにケガしない絶対的最終生産者であるメッシがいてこそ完成するスタイルゆえに、バイエルンではケガ人が続出して満足なスタメンも組めず大耳を逃し、シティでも常に不在の左サイドバックに加えて最終生産者の不在が大きく響いている。

 

攻守における得点/失点が監督ではなく一部の主力に大きく依存することがペップチームがメガクラスの一発勝負に弱い理由。

 

 

(急) 対策の汎用性とクラブの格の問題

 

シティの攻撃の無力化については主に3つ挙げられる。

 

1つ目はシティのDFラインを窒息させてビルドアップを阻害しミスを誘発させてショートカウンターを繰り出すストーミングスタイルの戦法。リバポやスパーズは、この戦法でシティを混乱に陥れることが多い。ペップ自身の応手としてはロングボールを積極的に前線に蹴りだして回避することがベター。バイヤンではハビマルやレバンドフスキめがけてロングボール回避を選択。

 

2つ目は中盤でのボール循環を阻害するために5レーンを全て閉鎖する方法、多くのチームが採用するシティ対策。ペップの応手としてはあえて待ち構えたところに配球し個の力で引きちぎる方法。シティではサネ、バイヤンではDコスタの暴力的な突破で応手。

 

3つ目はドン引き戦術。相手の攻撃を全て受け止め続ける戦略といえば聞こえは良いのでしょうども笑。この戦術は基本的には引き分け狙いの戦術であり典型的な弱者の戦術。応手としては高身長のアタッカーを起用してクロス爆撃を食らわせる方法。バイヤンでは、この方法で逃げ切ろうとするユーベを叩きのめしました。

 

これらの3つの防衛策には共通点がある。それはリソースが潤沢でないクラブでも模倣可能であること。また応手としては長身アタッカーと爆速ウイングが必要だがシティは前者はおらず後者もサネのみでありケガによる長期離脱により起用できない今季のシティが苦しんでいるのは必然。

 

次にシティを、どう攻めるか。これも3つの方法が挙げられる。

 

1つ目は脆弱な左サイドを崩す方法。元々メンディーがケガ続きでロクにプレー出来ない現状においてシティの左サイドバックはジンチェンコというMFタイプの選手。それもボランチというよりはシルバに近いアタッカー気質の強い選手。よって単純なスピードには勝てずフィジカルで押しても容易に崩れ去る。これは早急にメンディーに見切りを付けて主力級のLSB獲れば解決されるだろう。

 

2つ目はセットプレー。ペップはセットプレーのディフェンスに関しては、緩いところもあり、またフィジカルタイプよりもテクニシャンが多いシティにとっては、あっさりと得点されることも少なくない。この点に関してはセットプレーの守り方の再考が求められる。

 

3つ目はハイラインのシティのバックスの裏めがけてヨーイドンする方法。CBが鈍足なこともあって案外勝てることも多くシティの失点パターンの大半がCBのスピード負け。ウォーカーをCBで起用してスピードを担保するなりCBの補強が必要。

 

 

こういったシティ対策の汎用性により今季のシティは苦戦を強いられている。この攻守6つの問題のうち主力級のLSB獲得と長身CFの獲得、また質を伴ったアタッカーの獲得である程度は解決されるので来季の大型獲得に期待するしかない。

 

そして最後に挙げられるのがクラブの格の問題。シティには文明はあっても文化がない。スタジアムも魅力的とは言えず選手からの熱望も感じられない。こういったことは一朝一夕にはいかないとはいえ補強戦略において名門クラブに金銭面で上回らないとコアの獲得が難しい。ペップシティが、どのような帰着を見せるのか、果たして大耳獲得はなるのか。注視してこれからも見続けたい。

β世界線上の渚カヲル(エヴァ評論)

 

 

①はじめに

 

エヴァンゲリオン(以下エヴァ)と聞いてアニメを見ない方からすると理解するのが難解で聞いたことはあるけれど見たこともないという方が多数で熱狂的ファンの存在もあって近寄りがたいオーラを放つ作品だろう。エヴァについて述べると書くと敬遠する人が少なくない。今回はそんな方のためのエヴァ評論をするとする。

 

エヴァ評というと熱心なファンが作成したものがたくさん存在することも加味し僕のエヴァとの出会いから話し始めエヴァの『筋』の解析を中心に述べる。

 

 

②Qという悲劇

 

 僕は小学生高学年になると所謂『お受験』に追われ友人と遊ぶ時間も殆どなく小学生時代は勉強の記憶が海馬の多くを支配していて、そんな努力もあってか県内ナンバー2の学校に無事入学出来、小学生時代の反動からか娯楽に時間を注ぎ始めることになり、一番ハマったのは昔の名作映画の観賞。

 

そんな折に出会ったのが市川崑監督の犬神家の一族。有名作品なのでご存じの方も少なくないと思うが、犬神製薬を築き上げたおじいさんが死去、その財産を巡る骨肉の争いの中で猟奇的な殺人が発生し名探偵である金田一耕助が出動する、というお話。

 

この作品はまず撮り方が抜群に上手く川に倒立する死体に代表される印象的なカットが複数あり、日本映画は無駄な間が多くつまらない、といった僕の先入観を破壊する作品だった。

 

カッティングの速さと無駄なウェットな描写の徹底排除を中心とした市川演出に魅せられ映画鑑賞が趣味になったのがこの頃。

 

そんな市川作品に影響を受けた人間の中で最も僕が興味を抱いたのが庵野秀明エヴァンゲリオンという作品は存じていたものの一言さんお断りモノと敬遠していたが2012年に遂にエヴァを見てみようと思い、テレビシリーズ(旧エヴァ)を鑑賞し、行間のある筋とスタイリッシュな画の応酬に圧倒されながらも市川の匂いに僕は夢中になっていた。

 

その年に新劇場版として新作が公開されると聞き運命的なものを感じた僕は冬に劇場へ足を運び新劇場版エヴァンゲリオンQを見る。しかしそこで見たものは何のカタルシスもない破壊的で感情の全てが抜き取られるような無力感を抱いたまま帰路についたのを覚えている。

 

エヴァQを巡る感想も罵声の嵐で製作した庵野も精神を病み製作から離れるといった事態になり、僕も含め多くのエヴァファンが楽しみにしていた中で起きたQの悲劇、この悲劇が何故起きたのか、どうすれば良かったのか、そういったことを述べる前にエヴァのこれまでの歴史を振り返り僕自身の分析を付す。

 

 

 

新世紀エヴァンゲリオン

 

新世紀エヴァンゲリオンとは一言で言うと庵野秀明によって氏が心奪われた数々の映像作品や漫画といった既存の作品を解体し再構築することで作り出された脱構築モザイク作品で、1995年10月からテレビ東京で2クールにわたって放送され、続編として作られた『シト新生』『Air/まごころを君に』を含めた一連のシリーズを旧劇と呼称。

 

その後のリビルド劇場版を新劇と呼称。テレビシリーズを旧劇と呼ばない用法もあるが僕は一つのシリーズ群として旧劇と呼称する。この歴史を見ても分かるようにストーリーも難解なら歴史も複雑で手をかけにくいのも確か笑。

 

庵野監督はオリジナルを生み出すより前述したように既存の作品から引用された小ネタをおびただしいほどに採用しエヴァ以外の知識は勿論かなりの造詣がないと鑑賞しても面白さが分からないため解説や小ネタ探しを始めとし議論が熱狂、そのことがかえって一言さんお断りの空気を創出してしまうのかもしれない。

 

エヴァとはセカンドインパクトという大災害に見舞われ通常兵器による迎撃が困難な使徒が襲来する苛酷な状況を生きる文明が使徒のコピーを人間が操作できるように設計された人型汎用決戦兵器エヴァンゲリオンにより迎撃を行うべくパイロットとして碇シンジに代表されるチルドレンと呼ばれる中学生が駆り出されていく物語。

 

本作は庵野秀明に影響を与えた作家である岡本喜八市川崑実相寺昭雄の作品からのインスパイアを感じ、エヴァの基本構造に着目するとシンジの父親であり特務機関NERV司令官ゲンドウを中心としオトナによる人類の祖先であるリリスの捕縛と神の力を得るためアダムの復元を試みたためにセカンドインパクトを引き起こすという罪に対し子供たちがエヴァに乗り込み使徒と命を懸けて戦うという罰を背負うスキームが採用

 

これは前述した『犬神家の一族』と相似。犬神家の一族とは戦争の勃発に伴い日本軍の支援によって成り上がった犬神製薬の創業者である犬神佐兵衛が横暴に色欲に身を任せた末に不義の子も含めた5人の子供が惨殺されていくという罰を受けるといった物語で、主題を与えるとすれば『暴走する父権という罪を背負う罪なき子供達の罰』

 

シンジと同年齢パイロット綾波レイ碇シンジの母親、碇ユイのクローンであることは有名な事実。シンジはレイに惹かれゲンドウも妻の代替レイに異常な執着を見せる、この構造は源氏物語』における藤壺という妻(母)の生まれ変わりのごとき存在を巡る桐壺帝と光源氏の関係に似ていると言える。

 

この後の旧劇場版の苛烈な戦闘は岡本喜八を彷彿とさせ、タイポグラフィーは市川の『犬神家の一族』が採用、使徒という人類が太刀打ちできない敵に対し同等の戦力で対抗する手法も実相寺のウルトラマンに似ており、第1話の初めてシンジがエヴァに乗り込むシークエンスもガンダム1話のオマージュ、人間と使徒の二項対立物語はデビルマンの構造(エヴァが旧劇、新劇で上手く行かないのはデビルマン構造の帰結をインストール不全にある)と言える。

 

数多のバックグラウンドを前提とした本作はアニメ史に名を残し、世紀末に日本人が病んでいた状況を象徴する作品であり君と僕のローカルなセカイと皆と僕のユニバーサルな世界の符合というセカイ系として昇華されていく。次に70年代のヤマト、80年代のガンダム、90年代のエヴァと並び称される伝説的未完作品はなぜ閉じることに失敗するのか見ていこう。

 

 

④オの終わりヲの始まり

 

 

エヴァ庵野秀明脱構築アニメで、碇シンジ惣流・アスカ・ラングレー綾波レイといった中学生の間で繰り広げられるローカルな青春群像劇と地球の平和を守るためにエヴァに乗り込み使徒迎撃を行うというユニバーサルなレイヤーを採用し市川崑のウェット排除を中心としたクール(冷めていてカッコいいという2重の意味で)な演出に実相寺昭雄の斬新なカットや岡本喜八の苛烈な戦闘シーン(使徒エヴァ初号機が食らうシーンに代表されると思われる)をリミックス。

 

初期フェーズにおいて碇ゲンドウの真の目的は使徒迎撃になく使徒を迎撃することでエヴァの能力を向上させ感受性豊かな碇シンジの覚醒を促し人類補完計画の発動を目指すゼーレに仕えていると明かされる。

 

 

ちなみにゲンドウはネルフ、ゼーレ両方を踏み台としか見ておらず真の目的は自身が愛してやまずエヴァンゲリオン製造計画の中で魂を取り込まれた妻ユイをよみがえらせることにあることも示唆される。

 

 

青春ロボット活劇とセカイ系、また様々な要素を抽出し構成した新世紀エヴァンゲリオンは瞬く間に人気を獲得し90年代を代表するアニメとしての地位を固め、話が進むにつれて様々な思惑が交錯しシンジも父親への承認欲求のため戦い傷つき多くの仲間を失い打ちひしがれるところに現れるのがエヴァ屈指の人気キャラ、渚カヲル

 

 

人間の肉体を有した使徒カヲルは憔悴するシンジに好感を示し、シンジにとってもカヲルに強く惹かれていく。僕はカヲル以後のスキーム構築が上手く行かないことが今まで続くエヴァのノンカタルシスエンド不可避問題を引き起こすと考えている。

 

 

カヲルは人間と使徒のハーフで、使徒と人間の2項対立物語を2項合一へと移行させるデビルマンの手法を導入出来なかったことに問題がある。

 

デビルマンは人間の見た目をしながらも悪魔に変身する種族が顕在化し悪魔狩りが過熱し人間同士の戦争にまで発展するも、悪魔と人間は同一の種族であり全ての人間が悪魔に変身可能であることが明かされても過熱した悪魔狩りの民意は暴走してしまう2項対立物語の金字塔と呼べる名作。

 

このスタイルは汎用性のある模型なので多くの作品に適用され、進撃の巨人もそのひとつで巨人と人間の対立は巨人になり得る人間をトリガーの巨人とは人間そのものである事実の判明と虐げられていた側は迫害していた側であったという逆転フェーズ導入により巨人駆逐の大義が揺れるという内容。

 

 

カヲルはシンジと戦い殺害される絶望がシンジに更なる大きな絶望を与え、エヴァは謎の心理描写が多用され筋の鈍化(そもそもシンジが友人を瀕死に追いやるシークエンスは鈴原トウジ戦で消化済みなため必要性に疑義)に加え画の力も衰退し漆黒の様相を呈し有名なラストであるシンジの承認欲求獲得で終幕。

 

この後の旧劇場版もサードインパクトの発動を阻止できず敗北した世界で打ちひしがれながら地平を歩く絶望的帰結を付加したのみ。その後に作られたのが新劇、新世紀ヱヴァンゲリヲン

 

 

 

⑤エンタメ路線としての新劇

 

旧劇の評価としてカヲル以前の熱狂とカヲル以後のノンカタルシスエンドへの不満の両立が客観的な評価。

 

皆が満足する形で閉じ、庵野にとって自身主宰のアニメスタジオであるスタジオカラーを軌道に乗せるためにリビルドを決断し旧劇の難解さを一部解消した明朗ロボット活劇ものとして新劇場版製作する。

 

重要な変更、碇ユイの旧姓が綾波となり。このことで綾波(レイ/ユイ)を巡る碇(シンジ/ゲンドウ)の戦いという対比関係が鮮明になっている。この変更からも分かることは新劇場版はエンタメ路線を強化し旧劇のような悲劇を防ぐべく分かりやすく対比を用いたりシンジの成長を軸とする分かりやすさを重視した物語に徹し、また登場人物をミニマムにするため劇場版における裏主人公も1人に制限する配慮もあった。

 

新劇第1作となる『新世紀ヱヴァンゲリヲン序』は序盤の強敵であるラミエルという使徒を倒すため大量の電力を要すポジトロンスナイパーライフルの使用が提言され計画停電による電力供給を受け迎撃するヤシマ作戦を描き、裏主人公として綾波レイを採用しエヴァに乗り戦う意味とシンジの成長を中心にテンポの良いエンタメ作品

 

 

⑥相克するヲとオ

 

 

新劇場版第2作『ヱヴァンゲリヲン破』は新劇エンタメ路線の集大成でありながらも前作が旧劇のリビルドであったのに対し新劇のオリジナルキャラや展開が用意され、新劇の時間軸に対する重要な内容が盛り込まれた。

 

破の裏主人公は式波アスカラングレーで最強の使徒との激戦の中で旧劇にあった名シーンやファンが愛する一連の流れを再現した脱構築作品を脱構築

 

シンジの初号機パイロットとしての決意、綾波を守るためにユニバーサルを捨てるセカイ系としての一つの到達点を見せる(新海誠の『天気の子』に近い帰結で、『君の名は』は君を忘れる代わりに世界を救済する物語に対して『天気の子』では君を守るために世界を捨てる物語)。

 

注目すべきは渚カヲル登場のラストシーンでの一言。『さぁ、約束の時だ、碇シンジ君、今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ』と言う。今度こそという言葉には新劇場版は旧劇場版の世界線を前提としたストーリーという非常に重要な仮説が成り立つ。

 

新劇は旧劇の世界線とつながりループする世界を描いている。旧劇では失敗した人と使徒の間の存在としての二項合一形成装置カヲルが挿入され、シンジ覚醒によるインパクトを防ぎ破は終幕。そして第3作へ。

 

 

 

⑦僕が考える理想のQ

 

 

序、破を通じ作り上げてきたエンタメ路線の続編Qは大きな期待と不安を抱いて公開され僕自身も公開日に映画館で鑑賞。Qは端的に言えば壊れた作品で新劇エンタメ路線は完全に放棄されシンジは破の際のインパクト未遂の被疑者として周囲から徹底的に痛罵されているところに優しくしてくれたカヲルの全部を帳消しにする計画に乗るもかえって事態を悪化させ最悪の結末を得る旧劇の惨劇を上回る胸糞悪さが支配する暗黒作品となった。

 

 

僕が考えるQの別解を。

 

庵野は前述したように脱構築作家としていくつかの映像作品からの引用によりエヴァを構築する。序における大人の罪を背負う子供達という『犬神家の一族』引用、そして苛烈な戦争で傷つく人々の描写が多い破は『沖縄決戦』。

 

Qはどの映画を引用すべきか。僕は『日本のいちばん長い日』と考える。『日本のいちばん長い日』は日本がポツダム宣言を受諾し降伏するまでの政争を描いた名作で、ここからの引用を中心に作り上げるべき。

 

 

理想のQは碇ゲンドウを中心とした大人たちによるエヴァを用いた使徒迎撃計画の反省と組織内の力学闘争がふさわしい、

 

このなかでゲンドウはシンジ、レイ、アスカの3人が瀕死に近しい負傷を追わざるを得なかった責任と自らの計画である、ゼーレのスパイとしてネルフ指揮官に就任し、使徒迎撃を狂言としてシンジのレイへの思いを利用し、サードインパクトを引き起こし人類補完計画を発動させアダム、リリスの力を手に神の所業ともいえる喪失したユイを蘇生するため払った犠牲を三人のチルドレンに背負わせたことに父親として向き合う中で責任をとるのかユイのために計画を再考し実行へと向かうのかに悩み、

 

ユイへの思いから補完計画発動へと向かうものの終幕においてドグマに幽閉された初号機の中でシンジが目を覚まし最終作へと続く。

 

 

庵野が最も尊敬する映像作家である岡本喜八の日本のいちばん長い日のテイストを強めた会議室における早いテンポでの会話劇を中心に沖縄決戦のような旧劇場版で目指した苛烈な戦争シーンを描く、このような映画は近年では売れないと考える人も多いだろうがこの 別解が正解であったということを証明する作品が2016年に公開された、

 

監督は庵野秀明、作品名は「シンゴジラ

 

 

 

⑧Qの別解としてのシンゴジラ

 

シンゴジラは同年に公開された「君の名は」の興行成績の半分にも満たず影の薄い作品ですが僕が知る限り21世紀に放映された邦画のなかで少なく見積もって3指に入る作品、そう考える理由を付そう。

 

 

邦画の現状は厳しく、幹を担う作品、国民的作品の枯渇し、世界で評価される枝葉の非娯楽的作品は生まれても、庵野の師匠格の宮崎駿引退後は国民的作品など誕生する気配さえなく、芸能プロダクションの力学支配による役者の能力低下、無駄に時間をかけたタメを要求することが演出とでも思っているスタッフに代表される映画屋の質の低下に加え人口の減少と娯楽の多様化による興行成績の悪化は深刻な国民的映画作品の誕生の阻害因子として重くのしかかるのが現実。

 

 

役者の能力を重視しアイドル俳優を排除し子供向けの要素などみじんもなく、早いカット割りとオタク的な演出を盛り込みスタッフの融和などを無視し強引に現場において自らの思想哲学の具現化に努めた作品が80億の興行収入を獲得することなどだれが想像できたか、シンゴジラが成し遂げた偉業だ。

 

 

次に内容について複数の視点から語っていく。まずゴジラ最新作として、ゴジラとは3つのNであると僕は考える。

 

 

まずニュートラル、人間の自らの文明を豊かにする名目で核開発を進め、そのゴミを廃棄したゆえに生まれたのがゴジラであり人間の味方でなければ敵でもない立場。

 

 

洋画ゴジラ最新作はギャレスエドワードによって作られたが、そこでの立場は見えざる手といういわば自然界不均衡修正装置で人間の味方(間接的にではあるが)。ではなぜ中立である必要があるのか、それは人間文明への絶対保守性への皮肉こそが怪獣作品における重要な主張だから。

 

人間は自らの文明にとって不都合な存在ならば例え自らに過失があったとしても排除するという理念のもとに、生存し歩行しているだけのゴジラが社会を脅かす存在として殺害しようとする身勝手さの中でゴジラは咆哮を天に放つ、ここにこそゴジラの魅力がある。

 

 

第二のNはニュークリアー、ゴジラ原子力技術の副産物である核廃棄物を捕食し成長した言わば暴走する原子力発電所であり(シンゴジラにおいては福島第一原発をメタファーしていた)この部分が欠落すると陳腐な怪獣映画に成り下がる。

 

 

最後のNはネオつまり新しさ、正確に言うならば、その時点で日本人が最も恐れている事のメタファーであること。第一作ゴジラは米軍空襲と第5福竜丸の事故であり、シンゴジラにおいては米国に見捨てられると無力なまでの日本の法整備の脆さと形骸化された通過儀礼を踏まなければ法律さえ作れない民主政治の煩わしさ。これらのゴジラに必要な成分を踏まえた純正ゴジラは第一作以来初めてではないだろうか、

 

 

次の視点として先進的映画として、シンゴジラポケモンGOは相似、突然言われてもピンとこないだろうが、まずポケモンGOとはグーグルが開発した拡張現実ゲームで拡張現実とは実際の位置情報に空想の位置情報を重ねる技術のことであり、シンゴジラはこの構造を取り込んでいる。

 

ゴジラという古典作品に符合するようにエヴァという既存のフォーマットを調整することでゴジラを見ているのにエヴァ特に新劇第1作のヤシマ作戦を見ている錯覚に陥るとともにエヴァ自体が特撮ミニマミズムであるが故ゴジラとの融合が無理なく成功している

 

 

この方向性に挑んだ(おそらく恣意的ではないが)のは松本人志監督作品「大日本人」が邦画の中では先駆で成功に導いたものはシンゴジラが最初で向こう10年に渡って、この完成度の拡張現実的映像作品を成し遂げるものは現れないはずだ。

 

 

最後の視点としてエヴァQの別シナリオとしての視点。エヴァQの娯楽作としての仮説をシンゴジラは具現化した作品と言え、岡本喜八も静止画として出演し岡本作品の影響が濃厚で会議室での官僚と政治家による高速会話劇を中心とした早いカット割り、苛烈な戦闘描写は日本のいちばん長い日がベースになり、更に運命に抗う希望を描き、首都決戦後壊滅状態になってもヤシオリ作戦を立案し見事にゴジラの活動凍結に成功する。

 

それはまさにサードインパクト後の新しい世界線を始めて描くだけでなく活劇に幸福な帰結を与えるという庵野が乗り越えられなかった壁を打ち破った作品にして、仮説が正しかったことも同時に証明されたといえる。

 

 

シンゴジラとはQの別解であり庵野による新劇エヴァの補完計画であった、というのが僕の仮説だ。

 

 

 

⑨シンへの希望、そして

 

  ここからはエヴァの未来の話を。

 

庵野秀明率いるスタジオカラーは新劇場版シンエヴァンゲリオン:||の製作を進め、数多の推察の中で僕自身の予想を挙げると、Qの続編としての接続作品を作る方向ではないか、

 

Qのリビルドも含めた完結編としてのシンエヴァを製作するやり方を採用するのではないかと考えている。なぜなら破局的帰結を示したQへの接続は困難であることは自明でシンゴジラの成功によってリソースは潤沢であるので新たなシリーズ製作は不可能な選択肢ではないから。

 

 

真の完結を果たすのかは不明だが庵野氏の私小説的な様相が強い作品であるが故、死ぬまでエヴァンゲリオンを創作しては破壊し喜びや悲しみをダイレクトに投影し世界線を数多く建設していくかもしれない。

 

 

永遠に完結しないアニメ界のサクラダファミリア、エヴァンゲリオン、カヲルはα世界線でもβ世界線でも消え失せ、シンジが困憊したときに現れシンジの前で残酷な死を遂げる。

 

使徒の魂と人間の肉体を持つ渚カヲル、彼はもう出現しないのか、旧劇においても新劇においても渚カヲルという文脈が適切に処理されていない以上次の新たな世界線つまりγ世界線において現れるのを待つべきなのかもしれない。

 

カヲルは、その不思議な様相と中世的な見た目から大人気キャラクターの一人で、旧劇が破滅的な帰結へと向かう過程での出現や新劇Qの事実上の主人公であったがために、あまり良い印象を持たないのが僕の率直な感想、是非この不完全燃焼したカヲル問題を解いてほしい。

 

改めて見てみると、あらゆる世代が夢中になり様々な議論を交わし多くの人々の人生に影響を与えた名作、このような作品に僕は、これから先に出会うのだろうか。

 

ファンであれアンチであれ第三者であれすべての人々にこれだけは言える。それはエヴァが好きであれ嫌いであれ新世紀エヴァンゲリオンを鑑賞できる世界線に生まれたことは神の福音(エヴァ)であると。